●いま住んでいる土地は生まれてから二十歳すぎまで住んでいたところで、子供の頃はまわりは田んぼや畑ばかりだったけど、いまはほとんど残っていなくて家が建っているか空地みたいになっている。農業用水のための用水路だったところが蓋をされて、いまでも、住宅でもなく道でもない、土地の隙間のような不自然な空白として残っている。中学は遠くて徒歩で三十分以上かけて通った。家から十五分くらい歩くと新幹線の通る高架があって、それをくぐった先は市街化調整区域になっていて建物を建てることが出来ず、見渡す限り田畑が広がっていた。中学への登下校には二通りのルートがあって、一つは川沿いの土手の道を上流へとむかってゆくルートで、これが正式な通学路として定められていた。もう一つは、田畑の広がる真ん中をほぼまっすぐに突っ切る農道を通って行くルート。どちらにしても市街化調整区域を横切って、それが果てる境界の辺りに校舎が建っていた。だいたい、登校時は川沿いの土手の道を通ったが、帰りはその日の気分次第でどちらかを選んだ。
引っ越してから、海の方へ向かって散歩することはあっても、川の上流の方へ向かって新幹線の高架を越えることはなかった。ゲラの直しを終えて(「『ぜーガペイン』と横尾忠則」)、ファックスで送信するためにコンビニに出かけ、そのまま少しぶらっとしている時、足がなんとなくそちらへ向かった。近所の風景はかなりかわっていて、しばしば、「ここは前はどこだったのか」と混乱することもあるのだが、新幹線の高架をくぐった先は、三十年以上前とまったくかわらないものだった。大学生の時に教育実習のために二週間出身中学に通ったことはあるのだが(それももう二十年以上前だ)、その時は川沿いのルートしか使わなかったから、もしかするとこの農道を歩くのは中学を卒業してからははじめてではないかと思いながら、中学の方へ向かって歩く。
田畑の広がりがかわっていないだけではなく、農作業のための軽トラックやトラクター、農作業をしているおっちゃんやおばちゃんたちの姿、強烈ではなく薄らであるからこそなおのことまとわりつくように漂う牛糞のにおいなども、三十年前とまったく同じ状態がキープされているかのようだった。中学から下校してくる生徒たちの集団もかわらず歩いている。農道をぶらぶら歩きながら、自分は、いまの自分がもっている感覚よりもさらにもっと、牧歌的でのんびりした環境で育ったのだなあと思う。こんな道を毎日歩いていたら、それはぼんやりした人間になるよなあ、と。
あまりに「そのまま」なので、三十年前からずっとそこで農作業しているかのようなおっちゃんやおばちゃんの姿に対して、いちいち、いや、あのおっちゃんやおばちゃんたちは三十年前にはいまの自分よりもずっと若かったはずだ、という考えをこちらから意識的に送り返していないと、いま見ている風景から現実感が失われてしまいそうになるくらいの感じだ。いや、風景から現実感が失われるのではなく、「現実」と言うものの価値が失効して、いま見えている風景が与えてくる「現在=三十年前」ということ(感覚)のリアリティの方が勝ってしまいそうになる、と言うべきか。しかし、そのようにして現実をキープしようとしていても、中学が近づいてくると、農道からの「中学の校舎の見え方」が、また、三十年前に「見ていたもの」とあまりに「そのまま同じ」なので、自分のなかで三十年前に歩いていた時の感覚が急激に再生、蘇生されて、いま、ここを歩いている自分が、いったい「いつの自分」なのかが本気で分からなくなる一歩手前くらいの感じになった。このまま中学まで歩いて行ってしまうとちょっと危険かもしれないと思って、途中で折り返して帰った。
●『屍者の帝国』では、最後の最後のところで、そう名指されることのないままシャーロック・ホームズが召喚され、改めてこの小説の主人公が「ワトソン(プレ・ワトソン)」であることが意識されるのだけど、ぼくはシャーロック・ホームズシリーズに詳しくないのでこまかいニュアンスが分からないのだけど、そうだとすると、この最後の部分は、この後フライデーはモリアーティ教授になったのかも……、というニュアンスが込められていると読むことは見当はずれのことなのだろうか。「M」がホームズの兄(マイクロフト・ホームズ)だということにもなっているし、この辺りは、ホームズシリーズに詳しいと、もっといろいろ豊かなニュアンスが読み取れるのかもしれない。