●『屍者の帝国』(伊藤計劃×円城塔)、最後まで読んだ。二部までは、アニメを観るモードで読んで面白く読んだのだけど、三部に入ってまた、ちょっと混乱してしまう。何に混乱するのかと言うと、一方で19世紀を舞台にした、歴史とフィクションとが混同される胡散臭くて面白い物語があって、もう一方に、人間の意識や自由意思などに関するかなりハードな思弁があるのだけど、この両者がどの程度相手に対する必然性をもつのだろうかというところがわからなくなってしまう。この物語は本当にこの思弁を必要としているのか、あるいは、この思弁は本当にこの物語を必要としているのか、が、分からなくなる。分からなくなるというのは「婉曲的な批判」ではなく、文字通り読んでいて「混乱してしまった」ということ。二部までならば混乱しない理由はおそらく、この物語の進行と思弁の展開とが、「屍者たち」のイメージの強い現前によって必然的に絡み合っているように感じられたからだと思う。つまり、物語を組み立てることが思弁することであり、思弁することが物語を組み立てることである、という風になっているように感じられる。でも、三部に入ってからの思弁は、「屍者たち」というイメージの強さとはまた別の方向へと動き出す。そのこと自体の良い悪いを問題としたいのではなく、その時、たとえば19世紀というこの小説の時代設定は、この思弁に対する必然性をどの程度もつのかが読んでいて分からなくなってくる。あるいはもっと言えば、物語を物語として完結させること(決着をつけること)そのものと、思弁されていることの内容とがかみ合わなくなるではないかと感じ、混乱してしまう。この混乱は、もっと深く読み込んでいけばもしかすると消えるかもしれないし、消えないかもしれない。
このような混乱は、SF小説を読んでいる時にしばしば感じられ、ぼくはそこでどうしてもひっかかってしまう(しかし、SFアニメを観ている時はほとんど感じられない)。この物語にとってこの思弁(あるいは思考実験)はどの程度必要なのか、あるいは、この思弁にとってこの物語はどの程度必然なのか。ここをうまく切り分けて、ひっかかりをスルーすることがぼくにはなかなかできない。物語、語り、思弁、問題等を、切り分けて考えられない。いや「考える」ことはいくらでも出来るけど(「考える」ことは切り分けることなのかもしれないけど)、「読む」ときにその乖離をスルーできない。逆に言えば、たとえばボルヘスを読むとき、麻耶雄嵩を読むとき、ディックを読むとき、あるいは初期の円城塔を読むとき、このようなひっかかりを感じることはほとんどない。それを語るにはそのような語り方しかないという形で何かが語られているように感じられる。あるいは、それについて考えるということと、それをそのように語ることとが別のことではないかたちで、何かが語られて(考えられて)いるように感じられる。
これはたんに「具体性」の問題ではないと思う。もう少し精密に考えると、何かについて語る(考える)ということはいつも、その何かのことを別の何かによって表現する(変換する)ことであるから、それは常に変換であり比喩でありアナロジーであり配置転換であり、だから、そこで具体性を求めるとすれば、それは語る対象の具体性ではなく、語ることそのもの(思考過程そのものの)の具体性が問われることになるのだと思う。それは、変換過程の厳密性とも言い換えられるように思う。あるいは、そのような思考過程の具体性(変換過程の厳密性)が語る対象の具体性へと遡及されることで、対象の具体性が生まれる、と言う意味で、語る対象と語りそのものを切り分けられない。
●「Xが合議制である」という思弁が、この小説の成り立ち自体をメタ的に語るものであると同時に、この小説の成立過程の具体性(固有性)のなかから生まれたものでもあるとすれば、ぼくの混乱もそこから来るのかもしれないとも言えて、だとすればこの混乱は、小説のもつ「変換過程の厳密性」から導かれた必然的なものであるのかもしれない、とも言える。