●『野生の科学』(中沢新一)と『レヴィ=ストロース まなざしの構造主義』(出口顯)を並行して読み始める。ふと思ったのだが、中沢新一の言う「野生化」と西川アサキの言う「退化(初期化)」は、ほとんど同じようなことなのではないか。
●『ぼくらは都市を愛していた』(神林長平)。以下の感想はおそらくネタバレを含むものとなると思います。
まず、面白かったという前提での話なのだが、フィクションとして提示されているリアリティと、物語を物語として収束させる理屈とかがみ合っていない、という納得の出来ない感じが残ってしまった。提示された問題と、それに付与されている解答がかみ合っていない感じ(別の問題の答えがミスプリントで解答欄にある、みたいな)。それは、結末が物語上で辻褄が合っていないとか、物語として破綻している、完結されていないということとは違うことだ。むしろ、物語上のつじつま合わせが、作品が(作者が、ではなく、作品そのものが)本来問題にしているところをみえなくしているという感じ。この作品を読んではじめて、ああそうかと気付いたのだけど、ミステリが論理なのに対して、SFは理屈(思弁)なのかなあということ。で、この作品では、フィクションとして作り上げられた部分から感じられるリアリティと、その説明として付与されている理屈(思弁)が問題としていることとが食い違って、違うものになっているようにぼくには感じられてしまった、ということなのだ。
●これは本当に「都市」の話なの?、という疑問が湧いてしまう。もしそうだとしたら、都市の細部とか、都市の機能とかが、はじめからしっかり描き込まれているはずだと思う。しかしこの小説では、都市の機能を表象するものとして生々しく描かれているのは、せいぜい満員電車の感触くらいのものだと思う。まあ、ビジネスホテルの一室とかオイスターバーとか(あるいは、実際とはちょっとだけ違った東京の地名とか)が出てくるけど、そこに「都市の自律性」を表現するなにかが負荷されているようには感じられない。それなのに、最後の方になっていきなり「都市そのものが…」、「都市の集合無意識が…」みたいな話になっても、後付けのように感じられてしまう。
●これは決して「都市の書き込みが足りない」とかいう(技術的な次元の)ことをあげつらっているのではない。その逆で、これはこれでよい(こうである必然性がある)のだと思う。だから、この小説が面白くなかったということではない。中盤過ぎくらいまではとても面白いと思って読んでいた。一方に、内面の秘匿性の壁が崩れて、他人の思いが「わたし」に流入する(他人に流出もする)ことで自他の区別が混濁してゆく世界がある。もう一方に、まわりから他人がいなくなることで、世界が「わたしの主観」だけになり、それによって外側に客観的にあると思われていた様々な基準が崩壊してゆく世界がある。そしてその二つが同じ事柄の裏表のように、分離しつつも、互いの隙間にさし込まれるようにして同時進行してゆく。この二つの世界の具体的な描き込みはとてもリアルだし、このような二つの世界が対比されていることそのものにもリアリティを感じていた。ところどころでお説教くさいのがどうもなあ、とは思いつつも、興奮しながら読んでいた。
前者の自他の混濁の世界では、「殺す-殺される」という関係が他人へと移植されることで、「犯人」と「被害者」がペアを組んで「犯人を捜す」という異様な事態が発生し、後者では、デジタルデータのすべてを損壊する「情報震」というアイデアによって(他者の代替となり得る)外的参照物がことごとく使えなくなって孤立が(思考実験として)徹底化される。前者には、殺人と性的妄想の生々しさが自他を超えて瀰漫する描写に迫力があるし、後者の、たった一人になることでほぼ「わたし=人類」となった人物の描出には、『渚にて』(ネビル・シュート)にも通じるような「緩やかに死に向かって進行する時間」の味わいがあった。後者の世界で、生き残った兵士たちの「時間の流れ」がそれぞれ違っていたという話も面白い。
●前者の「自他の混濁」は、いわば内面を制御する基準(内的統覚)の崩壊であり、後者の孤立による「世界の主観化」は、外面にあるべき基準(外的参照項−他者構造)の崩壊であって、それは同じものの裏表だと言えると思う。それはどちらも、わたしが、世界のなかで「わたし」として存在(発現)するしかない以上、そこに触れざるを得ない、普段は抑圧しつつも決して消し去ってしまうことの出来ないヤバイ気配(ヤバイ領域)の具現化であり、つまり「わたし/世界」という構造の根幹にかかわることがらの表現ではないかと思う。そういう部分はとても面白い。だから、「問題の提出」としてはとても面白い。
ただ、その答え(着地点)として、裏表の世界にいる姉と弟が、双方が生きる「異なるリアル(リアル=フィクション)」をお互い認め合って、相手の存在を心の支えしつつも、それぞれに自分のリアル(リアル=フィクション)のなかを別々に生きてゆきましょう、みたいな結論になるのはなぜなのかと思ってしまう。いや、この「答え」をそれだけで取り出してくれば、そこに何の文句もあるわけではない。それは確かにその通りだと思う。でもそれは、ここまで書かれてきたことに対する解、この「作品」が要求している帰結ではないでしょう、と思ってしまうのだ。だから「答え」そのものが間違っている(つまらない)というのではなくて、その「答え」は、この「問題」の解にはならないのではないかということなのだ。
これは、リアリティの整合性の問題であって、作者の主張に賛同できないとかいうことではないし、出来事(事件)の因果関係の整合性がついていない(作品の構成として破綻がある)とかとはまた全然別の話なのだ(それこそ、マティスの絵のなかにセザンヌのタッチがあるような感じ)。
●これを書き終わってから、以前、『永久帰還装置』を読んだ時の感想を読み直してみたら、ほとんど同じようなことが書かれていた。
≪要するに、最初に提示される非常にハードルの高い設定と、後半に展開される常識的で「正しい」展開との間のつながりに、あまり必然性が感じられない、と、最初に起動された問題(あるいは期待)とは別の方向へ行ってしまっている、(…)≫
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110228