●川崎まで、『シュタインズゲート』を観に行く。コンビニで自分が書いた小説をプリントアウトして、電車のなかで、改めて紙の上で読んで細かい修正をする。前の「セザンヌの犬」よりハードというか、当たりが硬いかもしれないと思った。劇場版「シュタゲ」は、できれば秋葉原で観たかったけど、東京では新宿と池袋、神奈川では川崎と海老名でしかやってない。平日の昼間の上映でも客席は七割弱くらい埋まっていた感じ。公開中にもう一回くらい観たいのだけど、新宿に用事があればその時に、という感じかなあ。
●『STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ』。終盤の展開はもっともっと練って欲しかったし、オカリンを「呼び戻す」やり方も、あと一ひねりも二ひねりも必要だと思ったけど、少なくとも途中までは鳥肌が立つくらい面白かった。終わり方がなんかふわっとしてしまったので、印象がゆるい感じになったのは惜しかった。
この作品で重要なことは、「オカリンの消失」という出来事のそのもの(あり様)のリアリティと、それによって、本編でオカリンが立たされていた位置に劇場版ではクリスが立たされるという、視点の切り返し(変換)が起こることだろう。それはあくまで本編を経験した上でしか作動しないものだろう。そして、この作品があることで本編の見え方も変わってくるようなものとして、本編と不可分な(そして対等な)相補性をもった作品となっていた。この作品が「ある」ことにちゃんと必然性があるという展開になっていた。「ナデシコ」本編に対する劇場版「ナデシコ」みたいな関係。ここまでは、展開も描写も本当にすばらしいと思う。
ただ、オカリンの消失という出来事に対して「物語の整合性」としてそれをきちんと受け止めきれていなくて、「オカリンに対するクリスの感情」をぐーっと全面に押し出して、それによって(整合性が弱いまま)押し切って納めてしまうような終わり方になっているのは、作品の弱点としてあまりに大きいようにも思う。作品は「物語の整合性」によってだけ何かを語るのではないし、場合によってはそんなことはどうでもいいということもある。実際、この作品の前半から中盤はすばらしい。しかし、他ならぬ「シュタゲ」で、しかも最後の最後のところで「物語の整合性」をあやふやなままで押し切ってしまうことは、下手をすると今までのこの作品のすべての自己否定にもなりかねない。この弱点はあまりにも痛すぎる。
とはいえ…、とはいえ、致命的と言えてしまうかもしれない弱点をもちつつも、この作品はないよりもあった方がずっといい。いや、この作品があってくれることに強い感謝の感情をもつ。多くの刺激を受ける。たふんぼくは、今後この作品を何度も繰り返して観るだろうし、その度に刺激を受け、高揚しつつも、終盤になって、「あーっ」と残念な思いを噛み締め、なんでここでもう一つ二つ粘ってくれなかったのかと悔しい思いをすることになると思う。その感情は、自分の人生における実際の後悔と同じくらい強いものだと思う。でも、はじめから「劇場版はなくてもよかったよね」という程度の出来であれば、こんな風には思わないわけだから、この作品は絶対に重要なのだ。
あとは、この作品のすばらしいところ、刺激的なところを、ぼく自身が、どの程度まで、どのようにして受けとめることが出来るのかということだ。『シュタインズゲート』のぼくなりの「正しい完結編」を自分でつくりだしてしまえばいいのだ――まったく別の作品、あるいは作品とはまた別の形として。作品を受け取るというのはそういうことだと思う。本編から番外編、劇場版まで含めた『シュタインズゲート』という作品がどれだけすごいことをやっているのかということを、ぼくはまだ受けとめ切れていない。
●弟夫婦に二人目の子供が生まれた。