●『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』第10話。前回くらいから、なんとなく醒めた感じになってしまった。確かに上手くつくってあると思うのだけど、あらゆる場面がキャラクター消費のための仕込みのように思えてきてしまった。オルガが年上の女性に簡単に転がされてしまって(この女性がみるからに曲者で「食えない大人」で、こういうキャラの作り方は本当に上手いなあとは思う)、でも、そういうオルガがファンにはかわいくてたまらないのだろうなあとか、家族の話をし始めちゃったら死亡フラグとしか思えないなあとか、そういう感想しか持てなくなってしまった。フラグと萌えのための仕込みばっかりじゃん、と。
鉄血のオルフェンズ』では、タービンズが登場する前は男性キャラがほとんどで、女性キャラはクーデリアとアトラくらいしか登場していなかった(ビスケットの妹とかはいるけど)。このような女性キャラの少なさは、この作品の「男臭さ」を示すというのではなく、逆に、あからさまに腐女子受けを狙ったものだろう。
前の日記でぼくは、「オルフェンズ」では「いま」「ここ」「わたし」による「この関係」の(美的な)絶対化が世界の価値を支えているということを書いた。登場人物の多くの男性たちにとって「この(美しい)関係の維持」こそがもっとも高いプライオリティをもつ。鉄華団とはそのような集団だ。
だけど、基本的に腐女子は、物語から切り離されたキャラクター同士の別の関係(カップル)を妄想し、欲望する。たとえばそこでは、ビスケット攻めのタービン受け、というカップル化も可能だ。だとすれば、作品のなかで実行されている「この関係」の絶対化は、その関係の内部で発生するキャラをつかって、ファンが「別の関係」を欲望し、妄想し、消費するための原資として機能しているとも言える。
これは微妙な出来事と言える。ファンは「この関係」に束縛されている(束縛されるしかない境遇にいる)キャラクターに感情として引きつけられる。しかしそのキャラを、別の関係のなかに置くことを欲望する。だけどその欲望の対象であるキャラのキャラ性は、「この関係に束縛されている」からこそ成り立っている。そもそもそのキャラが「この関係」に拘束された存在としてあるのでなければ、他の関係に置きたいという欲望が生まれない。はじめから「ビスケット攻めのタービン受け」という物語だったら、おそらくあまり萌えないのだろうと思う。
●そういえば、『シュタインズゲート』の再放送で、23話のBパートが改変されている(「β版」となっている)という話を聞いて、ネットで探して観た。例の「確定した過去を変えずに、結果を変えろ」「最初のお前を騙せ、世界を騙せ」(そこに「スカイクラッドの観測者」が被る)という鳥肌モノの展開がなくなっていて、未来のオカリンとの邂逅もなくなっている。そして、オカリンが白衣を脱いで合コンで急がしいリア充大学生になっていた。もともとゲームだから、複数の別展開があるのだろうけど、最終回はどうなるのか。