●日曜に「サイエンス・ゼロ」で、ニュートリノの振動(質量)についての解説をやっていて、それを観ながら下のようなことを考えた。
我々が構成する「現実」は、虚構と物理と政治(権力関係)によって成り立っていると考えることができる(これは、想像界、現実界、象徴界には対応しない、別の分け方だ)。われわれが経験出来るのは、既に三つ巴となって構成された「現実」というもやっとしたもののみである。
われわれにとってすべてが「現実」であり、そこから分節的、分析的な過程を経て、抽象物として(現実の背後で働いていると想定される)「虚構」「物理」「政治」が抽出される。
つまり「現実」に対して、三つの異なるやり方によって抽出される(現実の下の層にあって現実を決定していると想定される)分析的抽象物=実体が、「虚構(的実体)」「物理(的実体)」「政治(的実体)」となる。
(例えば、この現実から「ニュートリノの質量(振動)」という「物理的実体」を抽出するために、現在までの物理学の理論体系とスーパーカミオカンデという構築物=観測装置と数学が必要である。その過程を抜きにして「ニュートリノの質量」を抽出することは出来ない。現実から分節的過程を経て抽出される「抽象物」が、現実の背後で働いている「実体」だと推測される。)
(一方、スーパーカミオカンデという「物理的実体を抽出するための観測装置」を、「政治的実体(関係)による構築物」として分節するような「現実」の分節法もある。「政治」は、そのような分節法による抽象化によって、はじめて「現実」のなかから「実体」として浮上する。)
(「サイエンス・ゼロ」とは異なり、「クローズアップ現代」では、ニュートリノの質量の発見、あるいはノーベル賞受賞に至るまでの様々な出来事や困難、それを乗り越えるために人がどのように動いたのかといった「人間ドラマ」に焦点があてられていた。これもまた、「現実」から抽出された抽象物としての「(虚構的)実体」と言える。)
(DVとSMとは明確に違う。そしてこの「違い」を人は「理解する」ことができる。これはどういうことか。前者は、「現実」の関係のなかでの「政治的実体」の露呈であり、前者に対する後者の違いは、そこに「虚構的実体」の効果を想定できることだ、と言えないだろうか。)