●お知らせ。勁草書房のウェブサイトで連載している「虚構世界は何故必要か?/SFアニメ「超」考察」の連載第十一回、「量子論的な多宇宙感覚/『涼宮ハルヒの消失』『ゼーガペイン』『シュタインズゲート』(1)」が公開されています。
http://keisobiblio.com/author/furuyatoshihiro/
今回は、具体的に作品について考える前の準備段階として、現代物理学がどのように「この世界」を描き出しているのかについて、ほんのちょっとだけ数式を使いながら、その概要をみていきます。数式を使っているのは、経験的なものやイメージによってでは示すことが出来ないものを、数式でならば記述することができるという、その感じを示したかったからです。量子が、粒でもあり、波でもあるという性質を持つということは、数式としてはどのように表現されるのか。あくまで「感じ」を示すに留まっていますが。
私たちは、自分が立っている地面が球形をしていて、この大地=地球が太陽のまわりを自転しながら公転しているという世界観を当然のように受け入れています。しかし、この世界観を受け入れているすべての人が、実証的にそれを確かめた上で信じているわけではないでしょう。教育、メディア、社会生活などを通じて、それらが常識として認められているからそれを信じているわけです。そして常識の多くは無意識的な直観のなかに溶け込んでいます。このような「常識」をもとに、何が現実的で何が現実的ではないかを、私たちは判断します。
これは17世紀の科学革命によって得られた世界観ですが、当時の人たちの常識は、これを容易には受け入れませんでした。また、ブラックホールの存在は一般相対性理論の帰結として予測されるのですが、アインシュタイン自身はその存在を信じませんでした。しかし、ブラックホールは観測されました。ここには、「常識」、あるいは実在にかんする「信念」と、物理学(数学)によって示される身も蓋もない「現実」との落差があります。現実はしばしば、まったく「現実的ではないもの」として私たちの前にあらわれます。
ここで問題としたいのは、科学としての物理学そのものではありません。物理学の現在によって、私たちの世界観(リアリティ)がどのように揺るがされているのかということが問題とされます。リアリティの基底を形作る世界観とは、私たちが「何を現実として信じ得るのか(何をリアルと感じるのか)」を下支えしているフィクション(信念)の枠組みだ、と言えるでしょう。そして、現代の物理学が示す世界の描像は、私たちの世界観から導かれる常識とは相容れないものとなっています。物理学は、それを絵空事として拒否することはできない、緻密な体系と膨大な実績をもっています。私たちの「現実」にかんする常識(信念、直観)は、物理学によって底を抜かれんばかりになっていると感じます。
これにつづいて取り上げるつもりの三つの作品はどれも、「私たちの常識の底割れ」が現実として起こりはじめていることを示していると考えます。
●ギャラリーCOEXIST-TOKYOの井上実展、ヤバかった。すばらしすぎて言葉もない。ぐうのねもでない。こんな絵が現代に成り立つのか、と。画家として敗北感しかない。
反動的なモダニズムではなく、モダニズムの進化形というのとも違う。モダニズムの絵画の可能性を、深く、深く、深く掘っていった結果として、その先にあれらの絵画があるのだと思う。そしてそれはやはり具象なのだ。具象といっても、(はじめから「イメージ」を描いているような)現代の具象絵画とは根本的に異なる、物の実在に迫ろうとするような、モダニズムを掘っていったところにある具象だ(物の実在は、いわゆる物質性というものとは違うところに行き着く)。セザンヌもマティスも、ぎりぎりまで抽象に近づきながら、対象を決して手放さなかった。そのような「ぎりぎりまで抽象に近づきながらも対象を手放さない」という探求の、そのさらに奥深くにある具象なのだと思う。
(それはきっと、純粋な形式主義としての数学と、「この宇宙」という対象とのかかわりのなかにある物理との間にある、ぎりぎりの拮抗みたいなことに近いのではないか。)
http://coexist-tokyo.com/inoue2/