原美術館でソフィ・カル展、池袋西武でウテナ原画展、アトリエ春風舎で映画美学校アクターズコース第二期初等科修了公演『革命日記』(作・平田オリザ、演出・松井周)。
ウテナ原画展は、その後観る予定の『革命日記』の開始時間との関係で三十分くらいしか時間がとれなくて、しかもすごい人でごったがえしていて、隅々までちゃんと観る、ということはできなかった。ウテナの時代はまだセル画なのか、と思った。びっくりしたのが、観客の多くが、展示を観ながら連れの人を相手に「自分にとってのウテナ」を熱く語っていたこと。ウテナを語ることがほとんど自分語りになっているような感じで。あんなに、その場で多くの人が「熱く語っている」展覧会ははじめてだった。ぼくは基本的にコスプレとかに興味はないのだけど、アンシーのドレスが展示してあるのには、おーっと気持ちが盛り上がった。アニメを三次元化したいという欲望が少しわかった気がする。作品世界と現実世界の接点のようなものが一瞬あらわれる感じ。物販コーナーの一番端っこに自分の本があって驚く。こんなところで出会うとは思っていなかったので不意を突かれてビビった。この展覧会の端っこに自分の本も置かれている、というだけで、この本を出してよかったと思った。
●『革命日記』(ウテナから革命つながり)。なんでそうなってしまったかよくわからなくて、おそらく公演そのものというよりぼくの側の見方の問題が強くあるのだろうと思うのだけど、演劇を観ているというより、平田オリザの戯曲を観ているという感じになってしまって、もっというと、平田オリザの戯曲の「技巧」を観ている感じになってしまった。人物(キャラクター)の配置、フレームイン、フレームアウトのリズム、出来事の立ち上がり(きっかけ)と展開と切断の仕方、出来事の重ね方、伏線の貼り方、その利用の仕方(再帰のさせ方)、不在の人物の生かし方、一つの場面をつくるときの抜き差しの呼吸、等々、それらが高度に洗練されていて、なんというか「とても勉強になる」のだけど、それと同時に、これって別にこの話でなくても、何にでも使える技巧だなあとも感じてしまった(だからこそ使える=勉強になる、のだけど)。
『革命日記』は革命の話で、つまり非合法的な政治活動をしている人たちの話なのだけど、これは別に革命に限ったことではなく、世間とのズレを感じているあらゆる人や団体にあてはまる話でもあって、それを「普遍的な要素を含む」とも言えるけど、じゃあなんでこれが「革命」の話として出来上がっているのかという必然性がわからないということでもある。ぼくは後者の感じの方を強くもってしまった。要するに、何にでも使える公式に「革命」を代入したという感じ。例えば、組織の活動をよく知らない支援者が、ハードな闘争についての打ち合わせ中にふいにあらわれて、そこに何とも言えない温度差やズレが顕在化する場面など、こういう感じをこんなにも巧みに生み出せるのはすごいと感心する一方、でも、これって要するに「あるあるネタ」の洗練されたものに過ぎないんじゃないのかという疑問も湧く。
これはおそらく、抽象性(形式性)と具象性(主題性)との混合のされ方の問題なのだと思う。ぼくは青年団の公演は観ていないのだけど、おそらく平田オリザが演出すると、抽象性、形式性の側がもっと強調される感じで演出するのだろうと思われるけど(それによって具象性の弱さは消えるのかもしれないけど)、この公演では、具象性の側が強い感じで演出され、演じられているので、平田オリザの戯曲がもともともっている「具象性の中途半端さ(必然性の弱さ)」が露呈されてしまったということなのかもしれない。