●吉祥寺の百年で、近藤直子さんと残雪についての対談をした。残雪は、ひたすら自分自身(という自分にとって未知であり制御不能なもの)に魅了されている作家なのではないか、ということくらいしか言えなかった気がする。出来れば、残雪の(カフカ的な側面というより)ボルヘス的な側面についての話もしたかったのだが(それは当然のように、夢と精神分析の話につながるのだが)、残雪の作品の組成はとても複雑で、それを口頭で喋れるほどにぼくの頭が整理されていなくて無理だった。『痕』の、鋭い鎌によってざっくりと切り付けられるような、深くまで届くイメージの進展と、『暗夜』の、まるでドタバタ喜劇のようでもある、次から次へと転がってゆく華々しい(という言い方もちょっと違う気がするけど)イメージの転換との対比の話なども出来ればよかったのだが...。近藤さんがぼくの本を読んでくれて、事前にリンチを観て下さっていたおかげで、リンチとの対比の話が出来て、その点では一定のひろがりが出来たように思う。半分冗談のような話として、『突囲表演』と『少女革命ウテナ』との共通点と相違点についての話もしようかと思ったのだが、その両方を知っている人がほとんどいないだろうと思ってしなかった。でも、この二つの作品はとても似ているとぼくは思う。
(「X女史」と「寡婦」との対偶関係は、「ウテナ」と「アンシー」の関係と重なるし、両方とも、ほとんど自然環境のようにして人物を取り囲む環境-機構からいかにして逃れるのかという話であるし、方向を見失うほどに執拗なディテールの積み重ねによって主題を追求してゆく感じも似ている。ただ、「ウテナ」では、王子様との邂逅をはじめとする対人関係による外傷-性的なものが常に問題になっているのだが、残雪においては、それ以前の、つまり対人-対象関係以前の、自分自身が「この世界(という全体)」から分化されて出現してしまったという誕生の瞬間に刻まれる外傷というか、世界が生物という個体を個体化させる、その力動が働く場が常に問題にされているように感じられる。ただそれだけでなく、『突囲表演』では、『暗夜』に収録されている短編とは少し違って、あきらかに「社会」という場で働く様々な力学が描かれていて、あるいは、反映されていて、いわゆる「社会主義リアリズム」とはまったく異なる形で、共産主義下で生きることのリアルな感触が、生々しく刻まれてもいると思う。)