●フランケンズを観るために江古田まで行く途中、中央線が人身事故で止まってしまったのだが、ぼくの乗った電車が止まったのがちょうど国分寺だったので、西武線に乗り換えて、なんとか開演ぎりぎりに着いた。所沢から江古田までの間、まず急行に乗って石神井公園で降り、準急に乗り換えてまた練馬で降りて、各駅で江古田まで、などという、乗り慣れない路線ではほとんど不可能な最短時間の乗り換えがすんなり出来たのは、(普段は時計以外にはあまり活躍の場のない)携帯電話のおかげなのだった。
●多田淳之介+フランケンズ「トランス」。何か、異様な凄いものを観た、という感触はある。ただ、(おそらく、観る人は予備知識なしで、いきなり観た方がよいと思うので、まだ横浜での公演があるので詳しくは書かないけど)、これだけ面白いくて凄いことをやっているのに、そこで選択されているのが何故、鴻上尚史の戯曲でなければならないのかが、最後まで分からなかった。だってこの戯曲最悪じゃん。いや、そもそも根本的なアイデアが、戯曲の内容から来ていることは理解出来るのだが、とはいえこの戯曲、最初の台詞から最後の台詞まで、ほとんど例外なく嘘くさくて下らなくて、薄っぺらに知的で、ぼくにはとことん耐え難く、舞台上で起こっている面白いことと、そこで発せられている言葉や物語の下らなさ(恥ずかしさ、寒さ)との乖離に、終始、もやもやとした重たい気持ちのままで観ていた。この戯曲が書かれたのは90年代らしいのだが、80年代には、様々なジャンルで「この手」の作品(半端に知的な批評性が通俗的でベタな物語や盛り上がりに欺瞞的に回収される)があふれていて、ぼくは身に染みてうんざりしているのだが、この公演をつくった多田さんやフランケンズの俳優の人たちは、おそらく70年代後半に生まれた人たちなのだろうから、そもそもぼくのアレルギーが理解不能なものなのかもしれないのだが。
普段、古典の誤意訳をやっているフランケンズに、あえて現代日本の戯曲をぶつけて、しかも、いかにも小劇場というような演出のクリシェ(例えば、大音響の音楽をバックに、俳優が観客に向かって、声をはって朗々と台詞をしゃべって盛り上げる、みたいな)を、グロテスクなくらい極端に拡大し、しかも、しつこくそれで押しまくることによって、それを突き抜けようというような意図は、なんとなく理解できるし、それはかなりの程度で成功しているように思う。それに、この作品を演出した多田さんという人が、「トランス」という戯曲のどのような側面に惹かれたのかということも、この公演を成り立たせている根本的なアイデアから感じることは出来るし、それはとても面白いものだと思う(舞台が明るくなって、一人目の女優が登場したとき、あっ、そうくるのか、と驚いたし、その「そうくる」を最後まで押し通すところも凄い、それに、人物-俳優の同一性が解体されてゆく様も面白く、そしておそらく、その両方が主題と密接に絡んでいる)。しかしそれでも、せっかくこれだけのことをやっても、やっぱ元になるのがこの戯曲じゃ駄目でしょ、というところに、どうしても戻ってきてしまうのだった。すごいもったいない気がして、ずっともやもやしつづけた。