●江古田ストアハウスで、中野成樹+フランケンズ『夜明け前後』(W.サローヤン「おーい、たすけてくれ」より)。なんといってもお話が面白い。割と普通な感じでゆったりと立ち上がりながら、いつの間にか惹きこまれてしまう。中野成樹の舞台を観ることの面白さの多くは、中野成樹が選ぶ戯曲が常に面白い、というところに依っていると思われる。ただ、この舞台は、サローヤンを原作として中野成樹が誤意訳した部分と、そのプレストーリーとして乞局の下西哲正が書いた部分との二組のカップルの話が対になっているのだが、この一対が、形式としてはぴったりとハマってはいても、内容としては、いまひとつ噛み合っていないのではないかという印象をもった。ぶっちゃけ、プレストーリーの部分はいらないんじゃないだろうか、あるいは、プレストーリーの部分も、サローヤンを「選んだ」中野成樹自身が、それを「選んだ」気持ちのなかで書くべきだったんじゃないだろうか、と思った。下西哲正の書いた部分がつまらないということではなく、その部分が、この『夜明け前後』の一部としてくっついていることの必然性が分らないというのか、サローヤンの部分と、下西の部分とでは、単純に「やってることが違うよなあ」と感じられてしまうのだ。(だから、形式が先にある、という感じにみえてしまう。)
舞台の空間の使い方もとても面白い。サローヤンが原作の部分は、ほぼ、舞台の向かって左半分のみが使われ(ただ、オフの音声のみが、(はるか遠くに感じられる)右隅のスピーカーから聞こえる)、プレストーリーの部分は、右半分のみが使われる。舞台左側のカップル(以前)は、檻によって常に隔てられていて、対して、右側のカップルは、ほとんど常に密着している。舞台の半分を大胆にデッドスペースにしてしまうという演出は、『遊び半分』でも行われていた。ただやはり、『遊び半分』での柔軟な空間の使用に比べれば、この舞台空間の分割が、ややスタティックに図式的なってしまっていて、予想外の空間的伸縮(展開)みたいなものは少なかったかもしれない。そしておそらく、その原因は、二組のカップルのお話が、内容の次元で充分に繋がっていない(図式的にも感じられる)からなのではないだろうか。
「短々とした仕事」というシリーズは、短めの戯曲を、短い時間でさっとつくるという企画らしく、さらっと軽い感じで、センスの良さだけで舞台を成立させるという感じなのだろうと思った。その、あまり作り込まない軽さが、いい感じ出てていたと思う。『Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)』の時に中野氏が、長い期間公演するのではなく、一つの公演は五回くらいでさっと切り上げて、そのかわりに次の年にも再演する(したい)、というくらいのスタンスが自分は好みだ、というようなことを確か言っていたのだが、そういう資質が上手く出ているように思う。ただ、やはりきっちりと作り込んだものも観たいと思う。来年は、本公演として『マクベス』をやるそうなので、それも楽しみなのだった。
●その後新宿で、「映画芸術」の若い編集者とお会いする。二十歳ちかくも年下の人とでも、普通に相米慎二の話が出来る、ということが、偉大な作品の凄さのだと思った。
●さらにその後、青木淳悟さんとはじめてお会いした。