2026/03/30

⚫︎昨日からの続き。巣鴨RYOZAN PARK THE WHITE ROOMで、「戯曲の読みかた、「超」入門 ―2020年代のリアルな言葉―」(山本ジャスティン伊等、宮崎玲奈、佐々木敦)。

このトークでの宮崎玲奈の発言は、とても興味深く、面白いものが多かった。しかし同時に、ちゃんと理解しようと思うと、芯が掴みづらいというか、なかなか難しくて、それでこの日記を書きあぐねているのだが…。

たとえば宮崎は、佐々木が演出した『風のセールスマン』について、上演は「集まりを作る」ことで、そして作られた集まりは「解散」しなければならない、そういう上演のあり方として面白かった、というようなことを言っていて、何かすごく面白いことを言っていそうだが、よくわからない。そもそもぼくは『風のセールスマン』の上演も観ていないので話にならないのだが。作品を観ていないで、作品についての言葉を聞いて何かをわかると思うのが間違っているのだ。

また、ぼくはトークを聞きながら下のようなメモを取った。これもまた、とても面白いことを言っていると思うのだが、ここで言われていたことの理路が頭の中で再現できない。

俳句 季語 一人で扱えるナショナリズム 

劇場 わたしが扱えるナショナリズム

「集まり」は解散する必要がある 一人でもできる

⚫︎うろ覚えで記憶違いかもしれないが、確か佐々木の発言だと思うが、(平田オリザの「東京ノート」が例に出されたのだったか、そうでなかったのか)「美術館」が舞台となる話があるとして、戯曲でそれを読む時は「美術館を想定」して読むが、上演を観る時は、目の前の舞台を「美術館として」観る。その時、上演されているその場所(シアター)はどこでもないフィクションのための空間となる、と。その話を受けてだったか、そうでなかったのか、宮崎が、戯曲は「動詞」を分類しながら読むといいということを言った。これがとても面白かった。

たとえば、「歌う」とか「踊る」と書かれている時、俳優は舞台上で実際に歌ったり、踊ったりする(ことが指示されている)。それに対して、「釣る(釣りをする)」と書かれていると、それはメタ的な動詞で、俳優は実際に「釣る」のではなく「釣って」いるかのような演技をする。さらには、「聞こえる(水音が聞こえる、とか)」と書かれている場合は、それは両儀的である、と。この「両儀的」の意味も深く考えていくとまたわからなくなるが、ここでは深追いせずに言葉通りに受け取っておく。

ここで、戯曲に「歌う」と書かれている場合、俳優が実際に歌うからこそ、「歌っている俳優」と「役」と「テキスト空間に書き込まれる《歌う》という語」の位相の違いが顕になる、と考えられるだろう。

(「動詞」の重要性に比べれば、名詞(固有名)は休憩のようなもので、お菓子のようなものだ、という発言も興味深かった。)

また、「渋谷へ行った」と俳優が口にしても、それは本当かどうかわからないが、渋谷の情景が描写される時、その場所は「本当」になると考えていいのではないか、という発言もとても興味深かった。

⚫︎ぼくはこれらの言葉から強い刺激を受け、興味を持ったが、しかし、それは作品を知らないままで受け取る「言葉」でしかなく、そうである限りふわふわしたままでキリッとした像を結ぶところにまで達しない。おそらく、言葉の次元だけでさらに考えていっても空回りするだけだろう。これらの言葉の実質を掴むには、作品を知らなければいけないだろうと思った。

(追記。山本が、岡田利規の戯曲「NO SEX」について何かを言おうとしたところで、話題が逸れて、そのまま戻ってこなかった。ここで山本が何を言いたかったのか気になる。)