●新百合ヶ丘の川崎アートセンター、アルテリオ小劇場で『ゆめみたい(2LP)』(中野成樹+フランケンズ)。すごく面白かった。
●「ハムレット」の誤意訳版。舞台上から客席にまで及ぶ一枚の大きな壁が舞台を左右に切り分けていて、舞台上に二つ、客席に一つ、人が行き来する穴が開いている。だから、中央で後方の座席でなければ、観客は舞台の左右どちらか一方で行われていることしか見えない(穴から向こうがちょっとだけ覗き見える)。ぼくは、舞台に向かって左側(下手側)半分しか見えない位置で観た(音は聞こえる)。反対側の客席で笑いが起こっても、なぜ笑っているのかわからない。
●巨大な人形が、舞台全体を俯瞰するように見下ろしている。作品は、二枚のLPレコードとして四つの部分で構成され、この人形はいわばレコードをひっくり返す役割であり、同時に舞台上のスケール感を(箱庭のように)抽象化する視点でもある。レコードがひっくり返される時に、メタ的観点からの語りが語られるが、この語りの主体はこの視点に焦点化されるのだろう。舞台をドールハウス化するような俯瞰的視線が意識され、しかし観客には舞台の半分しか見えない。
(だからこの視点は観客の視点のメタ化ではなく、むしろ劇中劇を観ている登場人物の視点に近い事後的で反省的な視点という感覚で、この視点によって、今行われているこの舞台が無数のシェイクスピアの反復のうちに置かれ、「ライブ感」が抑制されるように感じた。)
●舞台上を仕分ける巨大な壁以外は、装置も小道具も衣装もシンプルであり、衣装は、これが現代劇ではないことと、登場人物の役割とを示すための最低限の記号のみで出来ている。ハムレット、ガートルード、クローディアス、オフィーリア以外の衣装は「役割」を示す記号さえ付与されず交換可能であり、実際、一人の俳優が同じ衣装のままで複数の役を演じている。このシンプルさが、シンプルなもの同士の複雑なフォーメーションを可能にしているように感じた。
●演技も、シンプルであることによってポップであるという質をもつように思われる。ポップであることの抽象性。それは、シェイクスピアの時代に根拠をもつリアルにも、現代日本に根拠をもつリアルにも帰着しないということではないか(それは、リアルじゃないということではない)。人物たちは、役割とその最低限の属性をもつだけであるように見える。ハムレットから苦悩する内面(切実さ)は感じられないし、クローディアスから策略をめぐらす内面(裏面)も感じられない。リアリティはそこにあるのではない。人物の内側には何もなく、ただ、設定、役割、属性、関係だけがあり、個々の人物はその隙間に浮かぶ仮の形象であるかのようだ。裏返してさらに言えば、設定、役割、属性などもなく、ただ個々の場面、個々の台詞だけがあり、それが連続して、同じ俳優という形象に仮止めされて現れるから、そこに設定や役割や関係という持続する構造のような何かが透けて見えてきてしまうということなのかもしれない。ハムレットから内面が感じられないということは、(同じ俳優によるある一貫した演技の調子以外は)統一され持続する何かが感じられないということではないか。にもかかわらず、そこにハムレットという役名が与えられ、それが一人の俳優によって連続的に演じられると、あたかも役柄や属性という統一性が(表面からは見えないところで)成り立っているかのようにみえてしまう。あるいは、同一の役名をもつ複数の人物たちによるいくつかの場面が連続して現れると、そこに一定の関係とその変化があるかのように感じられてしまう。その「統一性」はつまり、(見えないからこそ)観ている側の頭のなかでつくられる。
●実際、舞台が半分しか見えていないからこそ、その見えていない「向こう側」に確実な何かがあるかのように感じられてしまう。カーテンコールの時、それまで舞台上で一度も見たことのなかった「トロンボーンを持った男」が現れた。そこでぼくは、劇中にずっと流れていたトロンボーンの音は舞台上でナマで演奏されていたのかと思った。それだけでなく、こちら側からは決して見えていなかったトロンボーン奏者が、あちら側からはずっと見えていたのだろうと思い、(トロンボーンの音は開幕前からずっと聞こえていたから)終始舞台上に居続けるトロンボーン奏者の(実際には見ていない)姿が強くイメージとして刻まれた。しかし考えてみれば、「こちら側から見えていなかった」ことは、「向こう側からは見えていた」ことの証拠にはまったくならない。向こう側からもまた同様に「見えていなかった」(ずっと隠れていた)可能性だって同じくらいある。さらに、トロンボーンをもった人の姿を最後に一瞬だけ見たことは、舞台中でずっと聞こえていたトロンボーンの音が、そこから発せられていたということの証拠になるわけでもない。
●前に「マクベス」の誤意訳版を観たときは、どうしてもシェイクスピア(の内容)に振り回されている感じがしてしまったのだけど、この「ハムレット」では、シェイクスピアの「内容」を見事にくり抜いてほぼ無化し、それを複数の人物と彼らの台詞と立ち振る舞いのフォーメーション(場面)にまで解体し、そのような場面の連続によって見えてくる(見えないからこそ「見て」しまう)、設定、役割、属性、関係とその変化という抽象的な次元をあざやかに浮かび上がらせているように感じた。それは、この作品に具体的内容がないということではない。内容(意味、秘密)は、登場人物の内側にあるのではなく、そのあらすじや物語内にあるのでもない。ボールがないのに、あたかもボールがあってサッカーの試合をしているかのように振る舞っている人たちの、そのフォーメーションから浮かび上がるように見えてくる、無いのに「ある」ボールこそがその内容なのだと思う。この無いのにあるボールの軽やかな動きのなかに、シェイクスピアにあるリアルな何かが刻まれているように感じられる、ということだと思う。
●昔、ジョン・ゾーンの「SPY VS. SPY」というアルバムがあって、オーネット・コールマンの演奏を正確にコピーして、それを出来る限り「速く」演奏するというコンセプトのもので、すごく乱暴でみもふたもないやり方なのだが、その、ただひたすら速さだけを追求しているかのような演奏から、オーネット・コールマンのオーネット・コールマンらしさが意外なかたちでふっと浮かび上がってくるのだが、ちょっとそれに近い感じがした。
●いつも思うけど、フランケンズは舞台装置がすばらしい。それは、舞台を半分に仕切るというコンセプトの面白さとはまた別で、配色や造形、それらを生かす照明などのセンスが本当にいいと思う。