●今日の日記は、昨日書いたことの言い換えでしかないかも。
●昨日観た『しゃぼんのころ』(マームとジプシー)では、同一の場面が何度も反復されていた。その時、反復の度に視点がかわる。これがもし映画だったら、カメラの位置を向こう側へ、あるいは横の方へと移動させればよいのだが、演劇では、カメラを反対側に置くためには、舞台空間そのものを、手袋をひっくり返すように反転させなければならない。それは例えば、こちら側から向こう側の風景を撮った写真をもとにして、向こう側からこちら側を見た風景の絵を描こうとするようなもので、それを見ている人の頭のなかをひっくり返すような変換が(見ている側にも)必要とされる。
同一のセリフ、同一の仕草が繰り返される時、俳優の立ち位置や俳優間の位置関係、その視線の方向が、観客の側に向かってどう変化しているのか、ということが、空間がどう書き換えられたかの指標となる。前の場面ではあの位置にいて、あっちの方を向いてこのセリフを喋っていた俳優が、この場面ではこの方に移動し、こっちの方を向いて同じセリフを喋っているから、空間はこのように変換されたのだ、と。観客席と舞台との方向や関係が固定されているかわりに、演劇の舞台は、その空間の意味を自由に書き換えることが出来る。小道具や装置の使い方、俳優たちのフォーメーション、ナレーションとセリフとに行き来などによって、舞台空間の意味をかなり自由に書き換えるということは、例えばフランケンズやチェルフィッチュにもみられるけど、舞台の空間全体を一瞬でひっくり返したり裏返したりが、何度も何度も繰り返し行われるようなものを、ぼくはいいまで見たことがなかった。
それは、たんに視点が移動する(カメラの位置がかわる)というだけでなく、デジタル画像のように鏡像反転やネガポジ反転のような操作や、あるいは、反復のなかでも一部の位置関係だけは変化させたりすることもできるということだ。しかし、生身の俳優が鏡像反転された空間内で動くということは、デジタル画像を反転させるようには簡単ではなく、そこに大きな負荷がかかることも重要なのだが。
そのような高度で冷静な(対象を突き放すような)操作性が発揮される一方で、演技そのものは、一見、きわめてベタなリアリズムに依っているようにも思える。実際に中学生がそう喋るように喋り、そのような姿勢で立っているように立つ。それに、俳優もまた、見た目として中学生に近い感じの人達が選ばれ(よく知らないので、たまたま劇団の人がそうだったのかも知れないけど)、ずっと見ていると、今、目の前で演じているのは実際に中学生なんじゃないかという錯覚が生まれるほどだ。つまり、演じる対象に対して出来る限り距離をゼロに近づけようとするような、憑依的リアリズムのようにもみえる(しかし実は、単純にそうとも言い切れない、とても不思議な感じなのだが)。そして語られる内容もまた、中学生たちの、ある意味きわめて小さくて素朴な話が、デリケートに、丁寧に、大切に、語られる。
このような、突き放したような高度な操作性と、小さな対象に没入してゆくような素朴な感触との共存が、この作品の、まず最初に驚かされるところだと言える。
しかし、この二つの方向性は矛盾するものではなく、主題の要請によって必然的に結びついたものだということが、劇が進行するなかで明らかになってゆく。これは六人の女の子の話であり、二人の男の子の話でもある(もう一人、用務員が出てくるけど、この人だけ大人であり、物語の圏外にいる)。八人の物語が平等に語られるわけではなく、とりあえず主役と言える女の子の話が中心となり、そこから分岐するように、それぞの別の視点が改めて語られる。しかし、こちら側からみた物語は、別の方向から見ると別様に見える、あるいは、脇役にみえるそれぞれの人に一人一人異なる事情がちゃんとある、というのは、群像劇のよくある構造であろう。しかしこの作品では、視点の移動はたんなる視点の移動ではなく、空間そのものがまるっきり書き換えられてしまうという事態としてあらわれることが重要なのだと思う。同一の場面が、視点によってではなく、別種の変換式によって別様なものへと書き換えられ、分岐して行く。舞台空間のそのような様を、観客は劇の開始から繰り返し経験しているからこそ、物語のレベルでの別の人物への視点の移動が、たんに「それぞれに事情がある」といったものではなく、世界そのものの新たな組み替えのような、動的な経験として構成されるのではないだろうか。
それと同時に、それぞれの人物への分岐は、もう一つ別の表現をもつ。当初、非常にベタなリアリズムであるように見えた演技は、次第に、それぞれの人物に固有の、抽象的な仕草へと分岐してゆく。そしてその抽象的な仕草の共鳴と反発は、物語の表面とは別の関係を、登場人物たちにもたらす。その抽象的な仕草は、重力に抗するような仕草の系列と、重力そのものを体現するような動きの系列という二つの系列があるように思う。対立していた二人の女の子(あきとひいらぎ)は、その仕草の類似性によって近づき、一方、行動を共にしていた二人の女の子(あきとふうこ)、あるいは男の子と女の子は、その仕草の異質さによって離れてゆく。