●横浜のSTスポットでマームとジプシー『しゃぼんのころ』。観劇が二日つづいた勢いで、ごく一部で超話題になっていた、まったく未知の劇団の舞台を観に行ったのだが、これがすっごい当たりだった。最終日で、キャンセル待ちの整理番号11番という、ギリギリの滑り込みだけど、滑り込めて本当によかった。
これはまったく新しい何かだと思った。主題というか、物語そのものは、良く言えば普遍的で、まあ、ありふれているとも言えるのだが、演技というものの有り様として、たんに演劇というだけでなく、映画とかテレビドラマとかも含めて、今までにあったものとはまったく違った何かを呈示していてように思う。身体(俳優)と、演技(役)と、言葉(テキストと、そして口から出される言葉)との関係が、今までにぼくが観たどのような「演技」とも違っているように感じられた。それがどういうものかを明確に言う自信はまったくないけど。
一見、いまどきの中学生のしゃべり方、仕草、姿勢などを正確にトレースしているだけのように見えて)、それだけではないように思う(しかし、そのトレースの正確さも尋常ではない、女の子が、内股で、片足だけをことさら内向きにしてつま先をたてている姿勢など、こういう姿勢を「演技」として観たことは今までに一度もないんじゃないかと思うのに、あー、こういう人いる、と感じる)。実際それは、今、観ているのが、俳優が中学生を演じているところではなく、実際に中学生がそこにいるのではないかと時々錯覚してしまうくらいにリアルだ。しかしそれが、空間を反転させつつ何度も反復され、そのリアリズムが極めて意図的にカットアップされる時、素朴なリアリズムとはまったく異なる様相として浮かび上がってくる。そしてさらに、劇が進むにつれて、ある少女においてはつま先立ちで歩く仕草、別の少女においては屈伸し、片足立ちになる仕草、また別の少女においてはやたらとわめき立てながらぴょんぴょんと跳ね回る仕草と、演技はリアリズムを越えて逸脱をみせて、それぞれの人物が分岐してゆく。その分岐は、はじめの方は皆似通った「いかにも今時の中学生」という感じだったリアルさから、一人一人の個別の存在の有り様を浮かび上がらせてゆく。そしてその個別性は、一人一人の登場人物の個別性であると同時に、俳優の個別性でもある。
あるいは、一見セリフは、セリフというより、たんにぎゃあぎゃあ騒いでいるだけのようにも聞こえる(実際、しばしば何を言っているのか聞き取れない)。昔から、女の子がぎゃあぎゃあ騒いでいる演技の紋切り型というのは腐るほどあって、それはほとんど見るに耐えない。しかし、この作品ではそうではない。例えば、電車に乗っている時に学生が騒いでいて、あー、騒いでるなあとだけ思っていて、その言葉の内容までは聞き取らず、騒いでいるという感じだけを聞いているような感じで、はじめはそのセリフが聞こえてくる。だからそれは、セリフを喋っているというより、学生がお喋りしている様を再現-表象しているように感じられる。しかしそれはたんに騒いでる感じの表現ではなくセリフであり、その内容には意味がある(伏線などもある)。だからそれは、一見、人に聞かれることなど意識せずに仲間内だけに向けられているように発声されていつつも、実は、それをちゃんと観客が聞き取れるように配慮して制御されている。これは驚くべきことではないか。早口で甲高い声で騒ぎ合っているだけようなセリフの意味が、実はほとんど苦労することなく頭に入ってくるのだ(同一のセリフが何度も反復されるということもあるけど)。ここでは、書かれた言葉と、口にされる言葉との間に、まったく新しい関係がつくり出されているのだと思う。
この作品では、同一の場面がカットアップされ、他の場面との新たなつながりのなかで何度も反復される。そして驚くべきことは、その反復が空間的な反転(裏表の反転、左右の反転)によって自在に変換されつつ、しかし同一性が正確に保たれてなされているということだ。それだけでなく、この作品の演出は、STスポットという小さな空間を、驚くほど自在に使って行われていた。狭い一つの空間を自在に変換させつつ、複数の異なる空間を重ねてゆく演出こそが、この物語における視点の移動に説得力をもたせている。最初の方で嫌な奴だと感じられた女の子にも実はそれなりの事情があったのだ、というような視点の移動は、群像劇の構造ではありふれている。しかし、そのありふれてもいる視点の移動が、場面が反復されるたびに、自在に空間が変換されるという演出によってこそ、意味のあるものになる。
あるいは、当初は対立しているように見える二人の女の子(あき、と、ひいらぎ)が、劇が進むにしたがって徐々にその仕草において類似してくる(一方の、つま先立ちの前のめりの姿勢と、もう一方の、屈伸や片足立ちの姿勢)。このような、立場の対立を、仕草の類似性による共鳴が越えてしまうことこそが、視点の移動以上に、この作品を複眼的にし、素晴らしいものにしている(しかし、仕草は、類似はしても、決してぴったりとは重ならない、というところもまた…)。
以上のように、構成、演出、演技の、非常に緻密な制御がある一方で、もう一方に、とにかく勢いまかせでどかーんと体当たりみたいな熱い演技によって支えられている場面もあり、これがまた素晴らしくて、その両者が当然のように共存していることの振れ幅の大きさもまた、この作品の素晴らしいところだと思う。とにかく、俳優が全員すばらしくて、この作品は基本的に女の子たちの話なのだが、そこに出てくる三人の男性俳優がまた、これしかあり得ないというくらいに素晴らしくて、こんなにあらゆる事柄が上手くハマッてしまうということがあるのだなあと、これは奇跡的なことだよなあと思って観ていた。
●この作品でかかっていて、ドアーズってこんなに良かったのかとはじめて思った。ドアーズは、いろいろとうまくいかなくて、学校にも行かず、家にも帰らずに、学校が見える川原で野宿することにしか希望をもてず、しかしその野宿も、たった三日しかつづけられなくて、結局家に帰って、また学校に行くしかないという無力感のなかで生きる中学生のためにあるような音楽なんだなあと思った。
●『しゃぼんのころ』は、『台風クラブ』がそうであるのと同様の傑作だと思った。
●観劇がつづいたこの三日間は異様なくらい濃い三日間だった。ちょっと疲れた。お金もなくなった。