●今日は、早めに並んでフランケンズの当日券をなんとかゲットしようと思っていたのだが、昨日提出した原稿のダメ出しが出て、あー、フランケンズは無理か−、とも思ったが、早起きして原稿の直しを必死でやったら、なんとか開演時間には間に合いそうな時間に終わって、今からだともうチケットがないかもしれないと思いつつ、とりあえず行くだけ行ってみようと部屋を出る。で、キャンセル待ちで観られた。
こまばアゴラ劇場で、中野成樹+フランケンズ『寝台特急"君のいるところ"号』。最初の方は、中野成樹の演出は洗練されまくってるなあ、俳優の人数が増えて、フォーメーションの面白さが一層増してるなあ、とか思って観ていたのだが、途中でよく分からない方向へ逸脱しはじめて、「えっ、これは何、どこへ向かおうとしているの」と戸惑い、目の前で起きていることをぽかーんと眺めているうちに、そのぽかーんのまま終わってしまった。前口上で中野さんが「実際の上演時間より、体感時間は長く感じられるかもしれない」というようなことを言っていたのだが、ぼくには、実際の上演時間の半分くらいにしか感じられなかった。それはきっと、ぽかーんとしているうちに、のれんに腕押し的にするっと向こう側へ抜けて、そのまま終わってしまった、という感じだからだと思う。お話としても、あっさりした話だし。
途中でとつぜん話の流れが中断され、演劇の約束事を疑うようなメタフィクション的な展開になったと思うと、すぐに一転して逆方向に振れ、無理矢理に演劇的な「お約束」を拡張的に使った(ほとんど学芸会的なノリの)展開となる(そういえば、俳優たちが舞台の両側に待機して、それぞれが中央へ出てきて喋るというこのフォーメーションは『44マクベス』にもあった)。それが、中野茂樹的な洗練された誤意訳の演出・展開の真ん中にどかっと挟まっている、と言えばいいのか。でもぼくには、その狙いがどうとかいうのではなく、真ん中に挟まったものそれ自体が面白いものとは思えなかった。かといって、「狙い」ばかりが見えるような嫌な感じかと言えばそんなことはなくて、なんかすごく楽しそうないい感じではあるのだが。だから、嫌ではないし、つまらなくもないけど、でも、そんなに面白くもないんじゃないか、という感じ。すごく洗練された語りの真ん中に、あってもなくてもどちらでもいいようなもの(洗練や探求が一番最初にそぎ落としそうなもの)が何故かどーんと居座っている、というのが、良いとか悪いとかじゃなく、なんかすごい不思議で、これは一体何なのだろうと戸惑い、ぽかーんとしていた。
もしかしたら、この作品の真ん中に、一つの断層というか、大きな空白が必要だったのかもしれないとは思う。この劇は人が一人死ぬ話でもある。そしてこの人は、ほとんど死ぬためだけにこの劇中に召還されたかのようですらある(ワイルダーのもともとの戯曲は読んでないけど)。そして逸脱は、この人が死ぬ場面ではじまる。ということは、突然の心臓発作によって亡くなってしまうこの人の死を、きちんと死として成立させるために、あるいは納得するために、たっぷりと空白の「時間」が必要だということなのかもしれない。そう考えれば、あの学芸会的とも言えるノリは、演劇がどのようにして固有の時間と空間を超えた(時空の限定を外した)表現をすることが可能なのか、という試みなのかも知れない(一方で、目的地に向かう電車、それぞれの事情を抱えた人々という通常の散文的時間が進行し、しかし一人の死によって、そこに別の次元の時空が交錯する)。だとすると、俳優がいきなり、舞台の後の「打ち上げ」の事情のような内輪話を語り出すのは、別にメタフィクションとかではなく、ここで語りの時空が別の次元に跳びますよ、という指標としてあったのかも知れない(時計が飛ぶし)。つまりそれは、「語り」そのものの問題ではなく、語られる「物語」の必然性によって導かれたものなのだろう。それならば納得出来る気がする。しかしそれらが、「お話」の部分ほどには充実しているとはどうしても思えないけど(でもそのゆるさは、面白いとは言えないけど、悪いとも思えないという、不思議な感じで、だからこれはこれでいいんじゃないかという気もすごくして、これはきっと中野成樹の演出の根本に「上品さ」があるからではないかと思う)。
そう考えると、まったく表情の異なる二つの時空が混じり合わないまま、ほとんど無造作にという感じで並べられることの必然性が少し納得出来るように思う(混じり合わないとはいっても、狂女が、死んで行く女と天使を「見る」場面によって、この二つの時空は繋るのだが)。そう言えばこの作品の「お話」のパートでは、空間を細かく区切り、ブランクをつくることで、逆に、それを観ている人の頭のなかで空間がモンタージュされるというような感じの演出がなされていた。