08/03/13

●晴れているのに、空も地上も霞んでいた。
チェルフィッチュ『フリータイム』について、ちょっと。
最近は、ぼくのパフォーマンスアレルギーもだいぶ後退して、演劇とかダンスとかも観るようにはなったのだけど、それでもまだ、生身の人が、リアルタイムで、人前で何かをすることを、作品とする、ということに対する疑問や違和感が消えたわけではなく、むしろ、その違和感の感触を確認するために観るという感じではあるのだけど、『フリータイム』を観てほとんどはじめて、生身の人が、リアルタイムで、人前で何かをするということに対して、すんなりと納得出来たというか、ああ、そういうことなのかと呑み込めた感じがした。それはつまり、何故フィクションという次元が成立することが出来るのかということの根本的な部分に触れるというか、フィクションというものの最も原初的な形がパフォーマンスということなのだなあ、ということだ。それは、何故作品というものが可能なのかということの、根本に関わることだ。
●舞台美術について。会場に入ってすぐに、舞台上のセットを見たとき、正直、これはどうなのだろうと疑問をもったのだが、作品の進行のなかで、そのような疑問は消えていた。中途半端にオブジェとしての存在感があり、中途半端に作品の設定を説明しちゃっているようなセットは、たんに邪魔でしかないんじゃないかと思ったのだが、それが絶妙な効果になっていたのは、演技と演出の質によると思われる。
つまり、それはある時は、フィクションとしてのその場がファミレスであることを説明するものであり、ある時は舞台上の空間を仕切る抽象的な仕切りのようなものであり、またある時は、俳優の動きを妨害したり、逆に誘発したりするための装置(障害物のような意味での「物」)であったりする、という風に、その「意味」が、場面や局面に応じて変化する、ということだ。そのようにセットの意味が変化するのは、俳優の演技の、セットに対する関係の取り方が、その都度変化するからだろうと思う。
チェルフィッチュの演技の面白さは、演技が「現実」に対してとる関係や距離が、その局面によって絶妙に変化するというところにあると思う。(そしてその変化は、いつの間にか起こっている。)生身の俳優であることと、演技する身体であること、伝聞であることと、本人の役のように演じること、具象的な説明であることと、抽象的な仕切りや動きであること。それらは、完全にどちらか一方の極に振れてしまうのではなく、とちらかというとこっち寄り、みたいな感じで、中間領域でうつろいながら、いつの間にか、あっち寄りになっていたりする。テキストの内容と俳優の身体の動きとの関係も複雑で、ある時は、ほとんどテキストに沿って動いているようにも見えるし、また別の時は、テキストと動きとがまったく切り離されて動いているようにも見える。あるいは、身体の一部はテキストに寄り添っている(あるいは、引っ張られている)が、他の一部は、まったく別の原理によって動いているように見えたりもする。(そしてそれが、近づいたり、また離れたりする。)チェルフィッチュを観るということはつまり、このような複雑な関係や距離のうつろいを見るということだと思う。
●フィクションとは、ある構えや構造が先にあって、そのなかで成立したりしなかったりするものではなく、その都度、現実とフィクションとの複雑な関係のなかで、こっちに寄ったり、あっちに動いたりすることで、成立したり、しなかったりするものなのだ、ということが分かる。というか、現実などという安定した基盤がどこかにあるのではなく、我々が現実と信じているものが、実は様々な次元でのフィクションの折り重なりであり、寄り集まりでしかないことが、チェルフィッチュをみていると納得されるのだと思う。
●例えば、「こんなに大きなスイカがあった」と身振り手振りで示すことと、そのような意味と無関係に、その身振りだけを反復すること、あるいは、その身振りの「腰の動き」だけが、まったく別の局面で反復されること、その時、手は葡萄のことを思い出していたりすること、あるいは、身振りなしにスイカだけが物としてあること。でも、そのスイカは実物ではなく書き割りだったりすること。あるいは、実物のスイカがあっても、その人が「こんなに大きな」と驚いた、その当のスイカとは別のスイカだったりすること。フィクションと現実といっても、その関係や距離には様々な異なる次元があり、「現実」というものがもしあるとしたら、異なる次元のフィクションが同時に成立することの出来る場、としてしかあり得ないだろう。
●『エンジョイ』や『ゴーストユース』では、映像や字幕などを多用して、舞台の上の情報を複雑に多層化することが試みられていたが、『フリータイム』では、そのような多層化は、俳優のフィクションや現実との関係や距離の取り方一つで、つまり、ただ俳優の動きそれだけによって、達成可能であるという確信によって、きわめてシンプルだと同時に複雑な、とてもうつくしい舞台になっていたのだと思う。