08/03/12

●六本木のスーパーデラックスでチェルフィッチュの『フリータイム』を観る。とりあえず今日は、これがすごく面白かったということだけを記しておきたい。ぼくは今まで、岡田利規のつくった舞台を、映像では『三月の5日間』『目的地』、ナマでは、『エンジョイ』『ゴーストユース』それから、ほうほう堂とのコラボレーションと、ベケットの『カスカンド』の演出を観ていて、それぞれとても面白かったのだけど、『フリータイム』はそのどれからも飛び抜けて面白いと思った。極端なことを言うと、既に『フリータイム』を観てしまった今、もう、自分が持っている『三月の5日間』のDVDを観直す気がなくなってしまった、というほどだ。とはいってもまあ、また観るとは思うけど。
(ぼくは『ゴーストユース』とかなり近いものを感じたのだが、しかし、俳優の力量の違いによって、こんなに決定的に違いがでるのかと、驚かされた。つくりがシンプルな感じになっているのも、俳優の力こそが前面に出ているということだと思う。それと、『ゴーストユース』よりずっと小さい空間で間近に観られるから、俳優の指先から足先までの微妙な動きや気配までがまでよく伝わる。なかでも特に、黄色いベルトの、ずっとぐるぐる円を描いていた女優、プログラムで確認すると伊東沙保という人らしいのだが、この人の動きはすばらしかった。セリフを喋ること(頭部)と、手の動き(手)との、乖離と接合との微妙なバランスとかが面白いと思った。)
●あと、これは批判めいた言い方になってしまうのだが、ポストパフォーマンストークという習慣は、もう少し検討の余地があるのではないかと思った。勿論、観客へのサービスとしてやっているのは分かるし、今日、そこで語られたこと(特に岡田氏の発言)は、とても面白くて、聞けてよかったと思うのだけど、それでもなお、ついちょっと前まで、俳優たちが緊密に、繊細に、つくりあげていた舞台の空間を、まだその気配や余韻が濃厚に残っているうちに、それと全く関係のない人たち(たとえ作・演出家だったとしても)が、どすどすと土足で上がり込んで(土足じゃないけど)、余韻を台無しにしてしまうということに、ちょっと疑問を感じた。しかし今までは、演劇を観て、その後にトークがあっても大して疑問には思わなかったのに(話がつまんない、と思うことはしょっちゅうだけど)、今日に限って特にそう思ったということは、この作品がそれだけ濃厚でデリケートな気配を、演技が終わって俳優が去った後にさえもなお立ちこめさせつづけているような密度で、漂わせることに成功しているということだと思う。
●今日は、編集者と二人の初対面の小説家とご一緒させていただいたのだが、この二人の作家のそれぞれの存在感に圧倒され、やはり小説家というのは「選ばれた人たち」なのだなあと思った。小説家の方からすれば、初対面で大して話しもしていないのに、一体何が分かるというんだ、という話ではあるだろうけど。でも、ごく素朴な意味で、作家とその作家が書く小説は似てるもんなんだなあ、と思った。
●今日、生まれてはじめて、出版社のお金でタクシーを使って、深夜の六本木からアパートまで送ってもらうという贅沢をしてしまった。最初は、いくら「助かる」とはいえ、そこまでされるほどの何かをこの会社に対してしているはずもなく、こんなことを受け入れてしまって良いのか、六本木のマンガ喫茶とかで始発を待つべきだったんじゃないか、と、後ろめたい思いでいたのだけど、タクシーの窓から見える深夜の都市の光景にすっかり魅了されて、そんなことはどうでもよくなってしまった。
ぼくは免許も車も持っていないし、深夜のタクシーを躊躇なく使えるような経済状況にはないし、ぼくのまわりにいる人もだいたい似たようなものなので、深夜の空いている道路を突っ走る車の窓から見える都市の夜景など、そうそう見られるものではない。世界にはぼくの見たことのない未知の表情が沢山隠されているのだ。けっこう疲れていて眠くもあったのだが、眠るどころではなく、次から次へと流れてゆく夜景が眼に侵入してきて、どんどん大きく眼が開かれてゆく感じだった。こんなことめったにないのだから、このままずっと着かないで、朝まで走っていればいいのにと思ったのだが(勿論、こんなことを思えるのもタクシーチケットがあるおかげなのだが)、予想よりもずっとはやく、すんなりと部屋に辿り居てしまったのだった。