●三軒茶屋のシアタートラムで、岡田利規演出の『友達』(作・安部公房)、代々木の秋山画廊で、小林聡子展。(実は、18日のレクチャーは、『友達』とモーリス・ルイス展を観るためのお金を得るために引き受けたようなもので、近いうちに絶対川村記念美術館にも行く。)
●『友達』について。最初の方の、舞台上の十人の登場人物たちが、舞台と舞台の後ろ側の空間を使いながら、同時に、それぞれバラバラに動いているところは、ああ、岡田利規だなあと感じた。台詞や動きが「チェルフィッチュ」的ではないからこそ尚更、それが分かり易く出ているように思われた。一応、台詞を喋る人が焦点化されていはいるのだが(ドリフのコントみたいに、俳優が舞台の前にまで出て来て正面を向き、観客に向けて、観客に話すように台詞を言うし、観客席を、というより、観客一人一人を、ガンを飛ばすように見ながら喋る、何度も、俳優と目が合ったかのように感じられる)、そこだけに焦点が当たるというよりも、全員がそれぞれバラバラに動いているという感じの方が強かった。男の部屋に押し掛けて来た九人の家族が次々にコートを脱ぐ場面や、男の読んでいる本が、「台詞」として語られている中心的な話題とは関係なく、各登場人物間を循環する流れなど、とても複雑な出来事が起こっているにもかかわらず、それが明解に分かり易く示されていて、面白かった。印象としては、『ゴースト・ユース』をコンパクトにして凝縮したような感じ。最初の方の場面に限っては、戯曲を上演するというよりも、戯曲という(展開の、台詞の)枠組みを使いながら、岡田利規的なパフォーマンスを組み立ててゆくのかと思われた。
しかし次第に印象がかわっていった。つまりこの作品は、岡田利規の作品というよりは、安部公房の戯曲を、岡田利規が自分のやり方で、出来るだけ忠実に「上演」しようとしている作品なのだということが分かってくる。そしておそらく、そういうものとしてはとても高度なのものなのだろうとも思う。でも、じゃあそれが「面白い」かというと、ぼくにとっては、それほど面白いとは思えなかった。そもそもぼくには、この安部公房の戯曲それ自体が、ちょっと古臭くてあまり面白いものとは思えないのだけど、(おそらく、あえて)その「古臭い」ところまで含めて忠実に「上演」しようとしているのではないかと思った。でもそれをやることが、岡田利規にとって、どの程度必然性があるものなのかという点について、ぼくにはよく分からなかった。確かに、これは岡田利規にしか出来ないような高度なものであるのだろうけど、同時に、ごく普通に戯曲を上演するという意味で「「演劇」で、岡田さんだってもともと「演劇」が好きで演劇をやり始めたのだろうし、たまにはこういうベタなこともやってみたいと思う気持ちはあるのだろうけど、それを観ていて、やっぱりぼく自身は、基本的に演劇には興味がないのだなあと感じていた(既にある「戯曲」を「上演する」ということに関しては、やはりフランケンズの方がずっと面白いとも思った)。おそらく、「演劇」という枠組みのなかで観れば、すごくよく出来た、完成度の高い作品ということになるのだと思うのだけど、ぼくには「そこ」が、ちょっとのれなかった。ベケットの戯曲をやった時は、岡田利規とベケットとが重なることで相乗効果になって、それが凄いことになっていたように思うけど、それは多分、岡田利規とベケットとの間の何かしらの共通点というか、共鳴する部分があったからで、でも、安部公房と岡田利規の間には、それはあまりないんじゃないかと思われた。
ほとんどいいがかりのような言い方だけど、テレビに出て来るような「きれいな女優さん」が舞台の上にいるというその時点で、「何かちょっと違う」と感じられてしまう。俳優さんが、あまりにも安定して「俳優さん」であり過ぎて、「きれいな女優さん」は「きれいな女優さん」のままで、麿赤兒はいかにも麿赤兒、若松武史はいかにも若松武史として安定していて、そこから揺らぐものが見いだせなかった。麿赤兒をキャスティングするという時点で、麿赤兒が揺らぎなく麿赤兒であることは分かっているのだろうから、おそらく、はじめから「これはそういう作品」としてつくられたのだろうけど。
●秋山画廊の小林聡子展。前にもまったく同じようなことを書いた気もするのだけど、小林聡子の作品は、いつも正確に小林聡子の作品以外のなにものでもない特別な「質」をもっていてて、ぼくはこの作家の作品を十五年くらいは観続けていると思うけど、その間ずっと、揺るぎなく、かわることなく、「小林聡子の作品」でありつづけている。こういう書き方をすると、発展がないとか、停滞、または硬直化しているという風にもとられかねないが、かわらないことが「停滞」を感じさせるのは、表面的にはかわらなくてもそこに「質」や精度の変質(劣化)が生じているからで(あるいは、その「かわらない質」がすぐに飽きてしまう程度の実質しか持たないからで)、小林聡子の作品から感じられる独自の「質」は、かわらないにもかかわらず、何度観ても、観る度に毎回新鮮なものとしてたちあがってくるだけの強さがある。(とはいえ、毎回同じことをやっているわけでは決してなくて、様々な、ことなる素材、ことなる形式を、その都度、かなり柔軟な姿勢で発見し、試していて、毎回、へーっと思うのだが、にもかかわらず、その様々にことなる外観をもった作品が、どれもかわらず「小林聡子の作品」としか言えない独自の質をもっている、ということなのだ。)
そもそも、常に変化や発展を求めないとやっていけないというのは、端的に言って「弱さ」のあらわれであって、それってつまり「資本主義」の都合に踊らされている(資本主義の病理に侵されている)というだけことなのではないかと、最近つくづく思う。常に「小林聡子の質」を持ちつづけるこの作家の新作を観る、その度ごとに、自分のことを少し恥ずかしく感じる。