川村記念美術館でモーリス・ルイス展。予想をはるかに超えて素晴らしくて、打ちのめされた状態。ぼくは、大学生時代、ルイス命だったのだが(そして今日、学生時代のその感覚は決して間違ってはいなかったと再確認したのだが)、まるで、昔付き合っていて別れた人と十何年ぶりかに再会して焼け木杭に火がついたみたいに(そんな経験したことないけど)、ルイスのことで頭が一杯になっている。別れた人に対しては、「なるべく思い出さないようにしよう」あるいは、「なるべくその経験を軽いものだったとしよう」とする抑圧が無意識に働くように、ぼくもいったん距離を置いたルイスに対して、というかルイス体験について、なるべく「たいしたことではなかった」と思い込もうとする抑圧が働いていたみたいで、例えば11月5日の日記では、《今のぼくにとっては、あまりに純粋でブレのないルイスより、もっと不純な要素が含まれ、濁りやブレを含んでふらふらしてもいるフランケンサーラーの方が面白いし、興味もあるのだが、しかし「好き」という次元ではもう圧倒的に好きで、》みたいな、ちょっと距離を置くかのような書き方をしているのだが、実際に、その作品をまとめて観てみると、そのような距離を設定することが不可能になってしまうくらいに魅了されてしまうのだった。ぼくにとって、というか、少なくとも絵画に本気ではまりこんでいった頃のぼくにとって、「絵画」とはつまり他でもない「この感じ」のことだったのだ。
ルイスは、フランケンサーラーのアトリエを訪れてその作品に啓示を受けて新たな方向の作品をつくりはじめた時(それが、今のぼくと同じ41歳の時なのだが)、それまでつくっていた作品の大半を廃棄してしまうのだが、ぼくにはそのような、結果から逆算するかような完全主義(あるいはプラトニック)っぽいところが嫌な感じがしていた(そしてこの「嫌な感じ」は抽象表現主義の多くの画家に共通するものでもある)のだが、しかしそれはおそらくぼくの誤解で、それは、作品(形式)が完成した後にそこへと至る試行錯誤やブレを消去して製作途中の矛盾をもみ消してしまうというようなことではなく、それ自身として独立した「ある水準」にいきなり達してしまった時、それは不可逆的な自分自身の変質をともなうもので、ふいにそれ以前の自分=作品のすべてが許せないように(あるいはまったく他人事のように)感じられてしまったということなのだろうと、改めて思い直した。ルイスの作品はそれくらい、あらゆる文脈から切り離されて唐突に「そこ」にあるかのようなのだ。
ルイスの作品か示していることは、「色彩は決して見切ること(イメージ化すること)が出来ない」ということと、「色彩にはフレームもなければ、大きさも形(イメージ)も関係ない」ということだと思う。学生の頃に感じていたのと今とでことなるのは、学生の頃は「ヴェール」の作品が最も好きだったのだが、今は「ストライプ」(これは正確にはストライプとは言えないと思うのだが、とりあえず便宜上そう言っておく)の作品こそが、ルイスの最高の到達点だったのだと感じられるというところだ。「色彩は決して見切ることが出来ない(色彩は決して記憶=フロイトの言う知覚記号、にはなり切らない)」ということについては、「ヴェール」のシリーズで既に実現していると思うのだが、「色彩にはフレームもなければ、大きさも形(イメージ)も関係ない」ということを十全に実現している(つまり、色彩を、スケールからも、フレームからも、形態からも、完全に解放している)のは、最晩年の「ストライプ」のシリーズにおいてだと思う(「ヴェール」の作品では未だ、台形を逆さにしたようなひとかたまりの形態に依存しているようなところがあるし、綿布の「質感」に頼っているようなところもある)。ルイスの色彩には、他の戦後のアメリカ画家とは決定的にことなる、独自の、間違い様のない正確な「質」が存在していて(それにはほとんどセザンヌマティスと同等の強い実質があり)、ルイスの色を観てしまうと、例えばロスコやニューマンの色彩にさえ「曖昧さ」を感じてしまうし、ステラなどは急速に霞んでしまうし、サム・フランシスなどまったくの偽物にしか見えなくなってしまう。(とはいえ、ルイスの色彩とはつまり「マグナ」の色彩のことで、マグナがなければルイスの色彩はあり得ないのだが、しかし、マグナがあれば誰でもがルイスになれるわけではなく、ルイスの作品=色彩を実現出来たのはルイスだけだった。)
「ストライプ」のシリーズが本当はストライプとは言えないというのは、つまり、そこにある色彩がストライプという形態で並んでいることと、そこにある色彩がその色彩=作品として「見える」こととが、ほとんど関係ないからだ。というか、見えてくるのはあくまで「色彩」であって「ストライプ」ではない。というか、そこにあるのは色彩の振動のみであって、それが決して「ストライプ」としては見えてこないように色彩と余白が配置されている。「ストライプ」のシリーズは、それ以前の「アンフィールド」のシリーズのような大きさをもたないし、フレームの形も極端な縦長か横長になっている(しかし、この極端なフレームの形態はグリーンバーグの示唆によるもので、ルイスはもともと、フレームの形態にはあまり厳密な興味はもっていなくて、あなたがそっちの方がいいのと言うのならばそうしときます、くらいの感じだと思われ、その点、グリーンバーグもルイスの作品を充分には理解できていなかったのだと思われる、ルイスは、シェイプド・キャンバスなどまったく問題にしないだろう、というか、問題の出所とか設定がまったくことなる)。にもかかわらず、「アンファールド」の作品と同等かそれ以上の色彩の広がりが感じられるし、フレームの極端さそれ自体が際立つことがなく、隣り合う色彩どうし対比や、あるいは隔たった色彩間の響き、ただそれのみが迫ってくる。実際、これらの作品を観ている時に感じられる切りのなさ(見切り=認識の区切りの出来なさ)は恐ろしいほどのもので、数ミリ視点の中心を移動させただけで、その都度、まったく新たな色彩の響きが、新鮮なものとしてきりがなく立ち上がって来て、しかもその色彩の感触を決して記憶(「かたち」として把握)出来ない。
フレームへの基本的な無関心が最も際立っているのが「アンファールド」の作品で、これらの作品では、作品の中央に大きくとられた余白それ自体に対して、おそらく画家は無関心というか無頓着で、余白と色彩の流れのバランスなど、この作品ではあまり重要なものではない。重要なのは、中央の大きな余白に隔てられた二つの色彩の流れの束がフレームの両端にある、ということで、これだけ巨大なフレームがこのような状態にある時、(図版ではなく、実物を目の前にする時)一望できるフレーム全体というものがほとんど問題ではなくなり、ただ、今観ている部分(の色彩、色彩と色彩の対比や響き、色彩と余白との関係)のみが、その都度問題になってくる。フレームの両端にある二つの色彩の流れの束は、(例えば岡崎乾二郎の二枚組のようには)フレームによって明確には区切られてないので、それは中央に広がる巨大な綿布の白によって、隔てられると同時に繋げられてもいて、その色彩の広がりを支えるスペースの(注目する部分の移動による)伸縮に、よりゆったりとした自由度を与えている(左右のフレームの端にある二つの色彩の流れの束は、あきらかに双対的な対応関係にありながらも、トーンとしても形態としてもバラバラで統一性がなく、つまりこのフレームは空間として滑らかには繋がらずに歪んでいるのだが、それを、中央の大きな余白が、距離を引き離すことで共存可能にしている)。この中央の巨大な綿布の白の広がりは、そこに「綿布の白」として現前するものでありながら、色彩の響きやひろがりを可能にする基底=空間でもあり、現前する不在のようなものとしてある。
「アンファールド」のシリーズの作品の前で、左に寄ったり右に寄ったり、前に出たり後ろに下がったりすることで、注目する地点や範囲を移動させるのと同等なことが、「ストライプ」のシリーズでは、同じ地点に立ったまま、ちょこっと視点を移動させることだけで可能になる。「アンファールド」のシリーズでそのフレームへの「無頓着さ」の実現は、主にそのサイズの巨大さに依っており、だから、図版になったり、極端に離れた位置から観たりすると、「色彩と余白のバランス」というような固定的フレームが出現してしまうという傾向もある。しかし「ストライプ」のシリーズでは、もともと簡単に一望出来るサイズでありながらも、その色彩と余白との配置によって、ほとんど「フレームを無意味化」することに成功していると思う。いや、フレームを無意味化すること自体が「目的」なのではなく、色彩に十全に語らせることによって、結果としてそうなった、ということなのだが。
●ルイスの作品を観て思うのは、色彩を見るというのは、ある種の絶対的な経験で、色は、記憶からも把握からもすり抜けつづけることで、人の目をそこへと釘付けにし、身体の運動を奪う。というか、運動以前に、身体を出現以前の潜在的な場へと押しとどめる、という感じがある(これってつまり、精神分析的に言えば、ヒステリーの女性に魅了されつづける(不能の)男性、という図式になってしまうのだけど、それはともかく)。ぼくにとって、自分の作品をつくるということは、そのような身体-運動の出現を押しとどめるかのような色彩の経験のなかで、それでもなんとかして、身体を動かし、どうにかしてある「運動」をたちあげようとする(ある身体を出現させようとする)ということなのではないかと、ルイスを観ながら思った。だから、ぼくはルイスに強く魅了されつつも、やろうとしていることは、ちょっとことなっているのだと思う。
●とにかく素晴らしい。30日で終わっちゃうけど、出来ればなんとかもう一度観たい。とはいえ、今日は、午前九時に部屋を出て、美術館についたのが午後一時過ぎ、という凄いことになってしまった。それは、佐倉駅に着いた時に送迎バスが出たばっかりで、何もない佐倉駅前で一時間ちかくもぼんやりと次のバスを待つハメになってしまったからなのだが。午後一時過ぎから五時の閉館まで、ほぼ四時間くらい、常設には目もくれずに、ひたすらルイスの十五点の作品の前で途方に暮れていたのだった。