デ・クーニングの晩年の作品s「フレーズ」

●吉祥寺のA-thingsで、デ・クーニングの晩年の作品が載っている画集をみつけて購入したので、その後、観ようと思っていた映画を観るお金がなくなってしまった。
それは八十年以降の作品が載っている画集で、おそらくアルツハイマー病を既に発病している時期にあたると思う。発病前(というかいわゆる全盛期)も発病後も、基本的な作品のつくりかたは変わっていないと思う。これはつくづく思うのだけど、一人の画家にとって、作品のつくりかたというか、作品への向き合い方というか、その画家にとっての「作品」というものの位置づけというのか、そういうものは一生を通じて、そうそう大きくかわるものではない。スタイルや技法や、あるいはジャンルそのものを変化させたとしても、基本的な距離感というようなものはかわらないのだ。(例えば、あれだけ様々なスタイルを使い分ける大竹伸朗ですら、作品と作家との距離感のようなものは、どのスタイルでもほとんど変わらないようにみえる。だからこそぼくには、あの膨大な作品群が、ちょっと単調に思えるのだが。)デ・クーニングでも、画面に対するストロークの入り方(あるいは、画面のなかで線の機能のさせ方)など、具象的な初期作品から、晩年までほとんどかわっていないように思える。ただ、発病後のデ・クーニングの作品は、それ以前よりすっきりと、そして淡白になった。それによって、デ・クーニングの絵のつくりかたが、わりとシンプルに見えやすくなっている。そしてもう一つ、フレームに対する意識が「緩く」なっている。
以前にも書いたことがあると思うけど、ぼくには、デ・クーニングのフレームに対する意識は、ちょっとキツ過ぎるように感じられる。それは、あらかじめフレームを前提にしていて、作品を最終的に「決める」時に、フレームから逆算して「決める」ようなところがある、ということだ。筆を動かすアクションを強調し、絵の具が跳ねたり垂れたりすることもかまわず、一見かなり自由でダイナミックな筆致で描かれているようにもみえるデ・クーニングの作品は、ぼくにはちょっとキツキツに決め過ぎのように感じられる。しかし晩年の作品は、フレームに対する意識が緩くなっているため、色彩や形態や線の「フレーズ性」の魅力みたいなものがより際立って、フレーズとフレーズとの関係も複雑で豊かになっていると思う。(フレームがキツ過ぎるという感じはつまり、フレーズとフレーズのと関係が、あるいはフレームに対するフレーズの有り様が、固定的になってしまっているということなのかも知れない。これは、すどう美術館の展示を観に行った時に上田和彦さんとも話したのだけど、フレームの縛りが緩くなることで、スレーズそのものに潜む潜在的な力がより多様に見えるようになり、それによって、フレーズと別のフレーズとの間に「あり得る」関係の可能性も豊かになるのではないだろうか。我々が絵を観て、複雑で豊かだと感じるというのはつまり、その画面の上にあり得る潜在的な可能性の豊かさを「感じて」いるということなのではないだろうか。)
しかし、では晩年のデ・クーニングが手放しで素晴らしいと言えるかというと、それは微妙なのだ。線にしろ、色彩にしろ、形態にしろ、あまりにヌルいと感じられる。ヌルいというのは、緩いというのと同時にヌルヌルに(ヌルッと)流れてしまう傾向があるということだ。つまり、タメとか、コシがなくて、単調にするする流れてしまうきらいがある。(デ・クーニングにはもともとそういう傾向はあって、その単調さをアクションが孕む制御し難さで補っていたりすると思う。)特に色彩がヌルいのだが、しかしこのヌルさに、時に微妙な魅力を感じてしまったりもするのだ。このあたりが、肯定もし切れないし、否定もし切れない、晩年のデ・クーニングの微妙な面白さであり、気持ちの悪さでもある。観る時によってその都度、ヌルさに独自の魅力を感じたり、あ、やっぱこれ受け入れ難いや、と感じたりする。価値判断とかいう大げさなものの前に、たんに「好み」の段階で、既に揺らいでしまっているのだ。そいうい意味で、何とも魅力的で気持ちの悪い、ざわざわさせられる絵なのだった。画集を、何度も、開いては(こわごわチラ観して)閉じ、開いて(こわごわチラ観して)は閉じ、してしまうのだった。
●しかし、「フレーズ」というのはつくづく不思議なものだと思う。あるいくつかの音の連なりが、何故魅力的だったりそうでなかったりするのか、たんなる一本の線が、何故面白かったり退屈だったりするのか。おそらくそれは、そこに含まれる運動の質の問題なのだろう。しかし、じゃあ「運動」って一体なんなんだろうか。