●飲みにいって、そのまま誰かの部屋へ流れて飲みつづけ、そこで雑魚寝してだらだら朝を迎えるということは若い頃は当たり前のようにあったのだが、ある程度の年齢になると、ちゃんと終電を気にして、その時間にはきっちりお開きにするという大人の行動が出来るようになり、というかたんに、朝までだらだらすることがが体力的にきつくなってくるということだし、それぞれがそれぞれの事情を持つようになるので、人の部屋に上がり込むのも気が引けるという遠慮も出て来るということなのだが、昨日は久々にそんな感じのだらだらで今朝になり、いい歳をしてこんなのもいい感じだと思った。しかしさすがに、帰りの電車のなかではかなりかったるかったけど。
●ネット上でみかけた『エンジョイ』の感想のひとつに、「いまどきの若者がこんな風にみられているのは恥ずかしい、私はあんな風にならないようにしゃんと生きたい、そいうい意味で啓発された」というような意味のものがあって、苦笑させられたのだけど、このような感想を「許して」しまうような弱さが、確かに『エンジョイ』にはあるのかも知れない。それはつまり、『エンジョイ』というタイトルとはうらはらに、(現状を打破するという意味での)「希望」などない状態、希望のない生を、それ自体として肯定するというところまで、作品の強さが至ってはいない、ということなのかも知れない。
『エンジョイ』の主題は、社会的な問題の「告発」とか「異議申し立て」では決してなくて、「このようにしてあるしかない生の形」を「肯定する」というところにあるはずだと思う。だからこそ『エンジョイ』は徹底して(身振りなども含めて)内在的なボキャブラリーのみで(いわば「内輪」の言葉のみで)かたちづくられているわけで、それが「強さ」となり得る(例えばその徹底した「内輪」性によって、演劇というジャンルの「内輪」性を超える力を得ている)のだと思う。「現状を肯定する」とか言うと、なにかとてもだらしないようなこと、あるいは保守的で体制的、みたいな感じに聞こえるけど、希望なんてなくたって全然OKじゃん、生きてるだけで丸儲けじゃん、と言い切る強さだけが、現代の社会に様々に張り巡らされた「罠」から逃れ得る唯一の「希望」なのではないかと、ぼくは思う。例えばここで描かれている人物たち(それは勿論「ぼく自身」でもあるのだが)は、将来に渡って裕福になることはあり得ないかも知れないし、結婚することさえ出来ないかもしれない。しかし、ずっとカツカツの生活であったとしても、なんとかかんとか生き延びられるのならそれで全然OKなのではないか。必要なのは、なんとかかんとか生き延びられるだけの生をどう生きるかということなのではないか、と。(現状に対する異議申し立てに意味がないと言っているのではない。それは絶対に重要だろう。しかし芸術がやるのはそれではない。否定的でしかない現状を、どう肯定的なものへと転化し、肯定として生きることが出来るか、ということをやるのが芸術だと思う。)
このような意味で『エンジョイ』に弱いところがあるとすれば、それはやはり、取り上げられている人物たちの年齢の幅が、あまりにも狭いということころあるのではないかと感じられてしまう。「格差」とか「下流」とかいう問題が可視化されたのは最近のことかも知れないけど、「下流」な人なんて昔からいくらでもいるわけで(例えば、昔から、日本で美術とか演劇とかをやっているというのは、もうそれだけで「下流」決定、みたいなものだし)、この視野の狭さは、意図的だとはいえ、やはりちょっと苦しいのではないだろうか。しかし単純に登場人物の年齢の幅をひろげればいいというわけではないのは当然のことで、「軌道から外れた若者たちに兄貴分として慕われる、自身もドロップアウトした喫茶店のマスター」みたいな青春もののクリシェになってしまってはしょうがないのだけど。