●まだ正式に決まっていることは何もないのだが、もしかすると十二月くらいに個展が出来るかもしれなくて、その個展に関連したイベントとかもするかもしれない。「〜かもしれない」が二つ重なるという、きわめてもやっとした段階のもやっとした話でしかないのだけど、イベントするとしたら、どんなことが考えられるだろうかとぼんやり考えていて、マニアックに絵画が好きな人(主に絵を描いている人)に何人か来てもらって、一人につき何点か、その人がすごく好きな絵の画像(古典でも現代の作品でも)を用意してもらい、それについて、この絵のこんなところがすごいとか、ここが変とか、ここがなんでこんなことになっているのかさっぱり分からないけどそれこそが面白いとか、そういうこと(偏愛を)を話してもらって、それに対して、なるほどーとか、それってこういうことなんじゃないのとか、それよりここのがもっと変じゃないのかとか、他の人が軽くつっこんだりするというような、そういう、ゆるーい、しかし真面目な、マニアックな話が出来ないものだろうかと思いついた。なによりもぼく自身が、人のそういう話を聞いてみたい。
要するに、絵が好きな人が集まって、画集とかを観ながら普通にするような話が出来ないだろうか、と。そんなことしても、面白いのは話している人たちだけで、聞いている方はちっとも面白くない(そんなマニアックな話にはついて行けないし、行く気もない)、と言われるかもしれないけど、でも、それはそれでいいんじゃないだろうか。極端なことを言えば、聞いている人が一人もいなくても、聴衆が話し手だけでもいい。絵についての話で、絵が好きな人のする、この絵の、こんなところが、こんなに面白い、という話以上に重要なことなんて、何もないんじゃないかと思う。例えそれが結果として、マニアックで閉じた内輪話にしか聞こえなかったとしても、少なくともそれは、絵に(作品に)向かっては開かれているはずなのだ。
(批評とか、シーンとか、文脈とか、戦略とか、闘争とか、歴史とか、現在とか未来とか、そういうことじゃなくて、これの、ここが、こんなにすごい、面白い、好きだ、という話。常にワンランク上の自分を目指したい野心の人だとか、現状を憂いていてそれをなんとか改革したい人とか、そういう人の話は聞きたくなくても聞こえてくるので、そうじゃなくて、たんに、これをやりたいからやっているという人のする、「これが好きだ」という話が聞きたい。)
ただ、ぼく自身もそうだけど、絵が好きな人ってあんまり喋らない人が多くて(というより、たんにぼくが、自己主張の強い、押しの強いアーティストにあんまり興味がないというだけのことかも)、ぼそっ、ぼそっと言葉が出るだけで、ほとんど沈黙が支配するような、結局、何が言いたかったのか分からないぐたぐたした場になるんじゃないかということが危惧される。でも、それも含めて、それはそれでいいんじゃないかとも思う。別に、理路整然としている(かのように一見聞こえる)ことを早口でまくしたてたり、無理矢理建設的なことを言おうとしたり、問題点や対立軸を明確に立てて議論しようとしたり、アジテーション的に熱く盛り上かったり、とか、そんな風にきっちりと面白くするようなサービスなんてなくてもいいと思う。
というか、人と人とが普通に話すって、全然そういうことじゃない気がする。相手の言っていることをどこまで理解できてるか分からないし、自分の言いたいことがどこまで伝わっているのか分からくて、もやもやっとしていて、結局何を話したのかほとんど忘れてしまったけど、何か残ってるものがある気がする、みたいなことでいいんじゃないだろうか(実際に「熱い人」と、「熱く語る人」とは全然違う)。そもそも、絵についてはそういう風にしか話せないように思う(議論を、理路整然と、きちんとやりたいのなら、そもそも喋る---それも人前で---のではなく「書く」方がいいと思う)。
●メッセージは、届くべきところにしか届かない。ただ、その「届くべきところ」が何処にあるのか(それとも、そもそもないのか)は、メッセージが実際に受け取られるより前には(事前には)決して分からない。「誤配」って言ってしまうと、あたかも事前に「正しい届け先」が確定的にあるかのような感じになってしまう。そうではなく、あり得ないかも知れない届け先を創造すること(そのポテンシャル)こそが、メッセージの(決して「メディア」のではなく)機能なのではないか。アーティストはただひたすら、メッセージを切っては投げ、切っては投げして、それがどこに届くのか、どこにも届かないのか、それすらもよく知らないままで死んで行く。そして、たまたまそれを受け取ってしまった人が、またそれを繰りかえす。
●というかそもそも、そんなことよりも制作の方がずっと重要なことなのだ。でも、制作は展覧会とは関係無く普通にしていることだし、展覧会の機会が与えられて張り切ってやったからといって(実際、張り切ってやりはするけど)、良いものが出来るということでもない。作品は、出来る時には出来るけど、出来ない時にはいくらかんばっても出来ない。これはどうしようもないことなのだ。
●というか、まだ具体的には何も決まってないのに、一人で先走りすぎかも。