●お知らせ。30日発売の「映画芸術」438号の「2011 日本映画ベストテン&ワーストテン」に参加しています。真正に参加しているとは言えないような参加の仕方ですが、これは「逃げ」ではなく、ぼくなりの「ガチ」のつもりです。とはいえ、かなり悩んでのことなのですが。
●もう一つお知らせというか、時期尚早だけどうれしさを抑えきれずに「書かずにはいられない」という感じなのですが、三月に発売の文芸誌(来月発売のじゃないです)に小説が載ることになりそうです。ゲラになっているので、多分今度こそ大丈夫だと思うけど、今までいろいろあったので、また何かあるんじゃないかという不安な気持ちも消えてはいませんが。
「前」の小説が掲載されたのが去年の四月号で、今度も四月号なので、「次」まで一年かかってしまいました。「前」のは一応依頼されて書いたのですが、今回は、誰に頼まれたわけでもないのに書きたくて勝手に書いてしまったもので、やはり、そういう作品を発表するのは簡単なことではなく、しかし、発表できるのはとりわけうれしい。
●昨日の夜、「世界ふしぎ発見」を観ていたら、三万年以上前の壁画が発見されたフランスのショーベ洞窟を撮ったヘルツォークドキュメンタリー映画が紹介されていた(3Dで撮ったらしい)。何故ヘルツォークが撮るのかという疑問はあるけど、それはともかく、その紹介の短い映像を観ていて、これだけの絵を描くためには相当のレッスンをしているはずだと思い、洞窟の入り口に近いところ辺りで、練習として、日々、いろんな動物を描いたり消したりしている旧石器の画家の姿がなまなましく、とても近いものとして想起された。「絵」は、隠された非日常的なものだったかもしれないけど、「絵を描く」という行為には日常的な鍛錬が必要であるはずで、だとしたら、画家はシャーマンのように普段は隔離されて生活していたのかもしれない。「絵」の持つ社会的な意味、効果、使用法などは現在とは大きく異なっていて、絵がマジックに近い領域にあったのだとしても(マジックの意味は違っても、今でもマジックだとも思うけど)、「絵を描く」という行為そのもの(その技術)は、きっとあまり変わらないのだろうと感じられた。
あと、同じ洞窟なのかは分からないけど、洞窟で発見された笛の破片を集めて復元したら、音階がペンタトニックになっていたという話もあった(これは映画とは関係ない、テレビ番組としての話)。音階もそうだけど、「笛」という単純な原理の楽器が、三万年前から(おそらくもっと前から)現在までずっと存続しているという事実に、驚きというのか、何と言ったらよく分からない感情が湧いてきた。笛を吹く人は、その行為によって三万年前とつながっている。
「絵を描く」「笛を吹く」という、「歩く」「食べる」と同じようには自然だとは言えない行為が、何故か消えることもなくづづいている。例えば、「笛を吹く」という行為は、耳、手、口、肺などによるバラバラな行為が、「笛」という道具によって関係づけられたモンタージュであり、そのモンタージュは、「歩く」「叫ぶ」のようには、先天的に与えられたものとは異なる。それは文化的次元にある構成物で、だから、ある時、何かしらの理由で切断され、消失してしまうかもしれない(「笛」という装置が失われれば、「笛を吹く」という行為のモンタージュは解体する)。だからそれはきっと、切れ目なく伝承されたというより、人類は、何度も「笛を吹く」というモンタージュを発明し直しているということではないだろうか。何度も発明され直すということは、そのモンタージュの「形態」には、人と世界との関係を媒介するものとしての「必然性」があるということではないか。そこに「笛を吹く」という行為のモンタージュの「強さ」があるのではないか。