●以下は、思いつきを記述した、きわめて粗雑なもので、厳密さはない。
ドゥルーズ=ガタリは芸術の起源を動物にまで拡張している(「リトゥルネロについて」)。テリトリーをもつ動物は既に表現の質への生成変化をもつ、と。テリトリーを囲い、そこに看板を立てれば、そこには表現の質が生まれる。鳥が、テリトリーを示す歌をうたったり、葉っぱを裏返して印をつけたりする行為が、既に人間の芸術と地続きである、と。それは確かにそうなのかも知れないけど、でも、そこにはやはり、看過出来ない切断があるように思われる。
ゾウでもチンパンジーでも、人が教えれば(強制すれば)絵を描く。でも、彼らには絵を描く理由(必要)はないから、決して、自らすすんで描きはしないだろう。しかし、旧石器時代のいつか、人は、自ら進んで、洞窟に手形を残し、模様を刻み、動物の絵を描く。人が、食物でもあり恐怖でもある牛に対して鮮やかで強いイメージをもつのと同様に、例えば草食動物は、彼らを危機に陥らせる肉食動物のイメージを、強く鮮やかな恐怖とともに、自らの内にもつであろう。あるいはチンパンジーは、自らの腹を満たす木の実のイメージを、鮮やかな快感ととにに自らの内にもつだろう。そのような指標−表象としてのイメージは、人がもつものと基本的にはそんなにかわらないであろう。しかし、チンパンジーは、自らの内にあるイメージを、わざわざ外に刻みつける必要がない。
中沢新一は、認知考古学を参照し、そこに唯物的な脳の進化をみる(『狩猟と編み籠』)。ホモ・サピエンスの脳は、その構造の変化によって流動的知性(認知的流動性)を得る。その時、身体と世界との関係の、一対一的な対応が崩れ、類比的な思考が生まれる。中沢新一は、心のトポロジー的な構造化と書いている。それは断絶された異なる領域を類比的に関係づける。異なる音色、異なる高さ、異なるリズム、異なるテンポのなかから、同じ形−メロディー(関係)が見出され、あるいは発展し、反転され、転移され、時には歪んだり、きれぎれになって、散らばっていても、同じ形(関係)が見出される(発掘−読解される?)、というような。鳥の歌に、言語と言ってもよいだけの高度な組織化や体系や相互感応が存在したとしても、そのシステムには、そのような類比性、流動性がない。人間の世界は、直接性を失う替わりに、類比的な関係にある複数の多様な流れの交錯する場となる。経験の位相そのものが変化する。その時、イメージと人、記号と人の関係が、動物のそれとは根本的にかわっている。
とはいえ、中沢新一による、イメージの第一群から第三郡という区別は、簡単には納得できない。そこには、何故そのようなイメージを、わざわざ洞窟の壁に刻むのかという問いが欠けているように思われる。第一群のような抽象的なイメージを儀式のなかでリアルに「見る−経験する」ことと、それをわざわざ洞窟の壁に刻むこととの間には、看過出来ない隔たり(飛躍)が存在するように思われる(「描かれた」時点で第一群の特性は後退している)。チンパンジーには、絵を描く能力はあっても、その必要がない。しかし、旧石器時代の人には、その必要があった。
この時に思い出されるのが、フロイトが「快感原則の彼岸」で描いた孫の姿である。彼は、自分ではどうすることも出来ない母親の不在に耐えるために(あるいは、いなくなってしまう母への復讐のだめに)、「オー、オー、オー(いないいない)」と言いながら、おもちゃをその代替物として(自らの手で能動的に)放り投げて「隠す(不在とする)」ことを繰りかえす。だが彼は、おもちゃを現実の母親の代替物とすることに成功することで、同時に現実の母親自身を、おもちゃと同等のものにしてしまう(帰ってきた母親に向かって、「坊や、オー、オー、オー、オー」と言う)。フロイトの孫がそのような象徴的(表象的)操作のために対象物(おもちゃ)を必要としたように、旧石器の人々も、描かれることで外在化された(操作可能な)イメージを必要とした、と(中沢新一風に言えば、イメージの第一群を第三群化するために、力や流れを法−物語として把捉するために、「描く」ことが必要とされた、と)。
しかし、そこに接続させてしまっても本当に良いのだろうか。そうだとすると、それは結局、絵を描くことは、対象関係における同一物(母)の回帰という運動から派生した(回帰を要請する強迫的な力動による)ものだ、という話になってしまう。つまり、人の神経症化こそが(認知的流動性神経症のシステムに把捉されることが)、人に絵を描かせる、と。自らの能動的な意志では制御できない世界から、同一物(牛、牛によって表象される力、牛を狩る快楽や恐怖、その感情の共有等)を回帰させ、表象として(象徴的に)制御するために(制御せよ、という強迫のために)、イメージがその(同一の)対象の代替物として、自らの外に(世界の内部に)刻まれなければならなかった、と。勿論それは、現代的な神経症とはまったく別の形をしたものであろうが。とはいえ、そんな、あまりにベタに精神分析的なことでいいのか。
というか、描くことはそれ自体、神経症的、強迫的な力から発した行為でありながらも、同時に、そこから逃れ、それを脱臼し、その力を別の方へと向けるための実践でもある、とでもいえば、多少は納得できなくもないけど。つまり、描くことは神経症的な力によって発動されるが、描くという行為そのもののなかに、同一物の回帰というシステムから逃れ、あるいはこぼれ落ち、別の力や流れに接続し、発展する契機が存在している、と(描く行為は、そもそも複数の行為のモンタージュであるのだから)。何か面白いものをみつけ、それで熱心に遊び始めるのだが、別の物に眼に着くと、すぐに飽きて別のことをし始めてしまう子供のように。
しかしそれだと、ドゥルーズが言っていることとあまりかわらない。それと同時に、むしろ、同一物の回帰(外傷)の場に徹底して把捉されつづけ、繰り返し繰り返し回帰し、執拗にその場に留まりつづけることによって、「同一物」を、怪物的な「別物」にまで育て上げてしまう(そもそも同一物は具体的な事物ではなく、「母」と「糸巻」がそうであるように、客観的には「同一」ではあり得ないのだから)、という方向もあり得るのではないか。むしろ、そのことによってこそ力や流れに近づき得る、とか。例えば、荒川修作楳図かずおのように(あるいはセザンヌも?)。しかしそれは、あくまで現代的な出来事で、決して旧石器的なものではないのかもしれないが。
ただ、この二つの方向は、決して相反するものではなく、(現在、ぼくが)「描く」という時に、常に同時に働いているように思われる。執着しないことによって執着する、あるいは、執着することで執着から自由になる。