●「芸術作品の仕事/ジェルの反美学的アブダクションと、デュシャンの分配されたパーソン」(内山田 康)を、改めて読んでいた。
http://www.ne.jp/asahi/tirtha/vitu/pages/The_work_of_works_of_art.pdf
(ここでアブダクションとは宇宙人に誘拐されることではなくて、パースの仮説形成のことです、当然だけど、念のため。)
デュシャンについては、こういう方向から考えないいと面白くない。ただ、この論文はそれ自体でとても面白いのだけど、もうちょっと突っ込んで考えたいところもあるので、ジェルの『Art & Agency』の翻訳が出てくれないかなあと思う。以下は、たぶん以前もこの日記で引用したことがある。
≪ジェルは、芸術家や鑑賞者が仕事をするという常識的な問題ではなく、作品がパーソンとして仕事をすることを議論するために、作品を全てインデックスとして理解している。≫
≪賢人はピグミーが仕掛けるチンパンジーのために作られた特別の罠について、次のように話した。チンパンジーは人間のように知恵があるから、問題に直面すると、頭の悪いアンテロープのように鳴きわめきながら走り去らず、立ち止まってどうしたら良いか考える。だからピグミーはチンパンジーの腕を糸で捉える罠を考案した。チンパンジーの腕を捉える糸が細いので、チンパンジーは糸を切っていつでも逃げることができると考え、糸を引っ張ったら何が起こるか見とどけようとする。チンパンジーが糸を引っ張った瞬間、毒矢の束が落ちて来る。
チンパンジーを殺すピグミーの罠が体現している知恵、呪術の力、魔力を帯びた叙事詩について賢人が語る物語、その後に続く様々な罠の展示を通して、罠が獲物を捕らえるための単なる道具ではなく、その中に森の知恵と、猟師の思考と、至福の絶頂にある動物が魔の一撃に打たれて命を落とす悲劇的な叙事詩を体現していることを、ジェルは明らかにしようとする。罠は不在の猟師の神経システム、運動システム、蓄えた力を解き放って獲物を撃つ仕掛けを備えた代理猟師だ。罠は猟師の単なるモデルではなく猟師に代って仕事をする点が、言語的なモデルとは異なっている。罠は作り手の猟師に似ているだけでなく、獲物となる動物にも似ている。罠はこれについて語る賢人がいなくても、それ自体で芸術作品として展示することができる。なぜならば、罠は思考をそれ自体のうちに体現し、意図を伝達し、制作者と獲物を表象するだけでなく、両者の相互的な関係を体現し、刻印し、統合するアッサンブラージュだからだ。≫
≪(…)猟師と協力して罠を働かせていたのは、罠に働きかけることによってその獲物となってゆく部分的な自律性をもったエージェント・ペーシェントである動物による罠への関与だった。このような未来へ向かって展開する再帰的な経路を使って仕事をする罠が、見る人を魅惑して仕事をする芸術作品の作業モデルだ。≫
●森の知恵を体現するものである「罠」は、チンパンジーアブダクションを促すことによって作用する。この時「罠」は、ペーシェントとしてのチンパンジーに対しエージェントとして作用する。この「罠」は、エージェントとしての猟師によって制作されたペーシェントでもある。「罠」がエージェント・ペーシェントとなることで、猟師(エージェント)―罠(ペーシェント/エージェント)―チンパンジー(ペーシェント)という繋がりをつくる。この時、猟師の知恵がチンパンジーを捕獲するのではなく、チンパンジーアブダクションすることで自ら進んで「罠」にかかることによって、「罠」から猟師へと知恵が遡行する。チンパンジーが猟師の知恵に騙されるのではなく、猟師―罠―チンパンジーというつながりが、より大きな「森の知恵」の部分として作動していることになる。つまり、森の知恵を体現する「罠」によって、猟師とチンパンジーの協働が実現する。「罠」は(表象としてではなく、そこに含まれる知恵として)、猟師に似ているのと同じくらいチンパンジーに似ていることになる。「罠」は、機能することで類似する。猟師やチンパンジーという風に各パーソンとして分割された「森の知恵」は、「罠」を媒介とすることで接続され、森を循環する。
ジェルにとって、芸術作品は表象ではなく、このようにして「仕事」をする「罠」である。
●≪AA(『Art & Agency』フレデリック・ジェル) の表紙を飾っているのはデュシャンの《停止原理の網目》(1914)だ。地下鉄の路線図のようなこの絵は、《春の若者と娘》(1911)の下書きの上に描かれていた。この絵は《三つの基準停止装置》(1913)から発展した作品であり、翌年から制作が始まった《大ガラス》(1915-23)の毛細血管の下絵だった。ジェルは、この作品が時間の持続を表現していると言う。《停止原理の網目》は《春の若者と娘》と《三つの基準停止装置》の把持であると同時に、この後で制作される《大ガラス》の予持だった。同時に把持であり予持である作品は四次元的な運動だから、これをイコン、あるいはシンボルとして捉えると、作品の見えない部分が、世界の中で、持続の中で、未だに・既に姿を顕していることを見落としてしまう。≫
●イコンは類似によって対象を参照し、シンボルは一般化された慣習によって対象を参照する。インデックスは直接的な作用や連続性によって対象を参照する。≪肖像画や図形はイコン、足跡や雷鳴はインデックス、対象を慣習的な規則に基づいて一般化した経済指標はシンボルだ≫。ジェルにとって芸術作品はアブダクションを誘発することで機能するという意味で、(イコンやシンボルの要素が含まれていたとしても)インデックスである。
ここでデュシャンの「停止原理の網目」は、「罠」が猟師の代理であると同時にチンパンジーの知恵を内包していたのと同様に、「春の若者と娘」「三つの基準停止装置」を把持すると同時に「大ガラス」を予持しているものとする。
デュシャンはインデックスを制作した。《Tu m’》(1918)では「君は私に…」というその不完全なタイトルと、作品の中央から鑑賞者に向かって突き出た瓶用ブラシが、鑑賞者のアブダクションを待ちかまえる。《大ガラス》の副題Lamariée mise à nu par ses célibataires même「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」には、Marcel のmar とcel が分配されていて、la mariée(花嫁)とses célibataires(彼女の独身者たち)は、それぞれ分割されたマルセルのインデックスになっている。反復して戻ってくると、マルセルが、花嫁と彼女の独身者たちのインデックスになっている。《大ガラス》は、マルセルが彼女と彼らの求め合い反発し合う運動の中に現れ、彼女と彼らがマルセルの側に現れ、私が作品の中に、作品が私の側に現れる反転を起こしながら、図式を転移するブランコだ。これは表象ではない。このブランコの反復は同一のものを繰り返さない。ローズ・セラヴィはこのような反復のひとつだ。≫
●「花嫁」と「彼女の独身者たち」は、「大ガラス」という「罠」を媒介にして繋がるそれぞれ自律したパーソンであるが、それはより大きな「マルセル」というパーソンの分割された部分である。しかし同時に、その「マルセル」というパーソンは、「大ガラス」という「森」のなかで、「花嫁」というパーソンと「彼女の独身者」というパーソンという別々の、自律したパーソンから零れ落ちた欠片の寄せ集め(協働)として成立する「罠」でもある。この裏表の循環する反転は、彼と彼女が反発し合い求め合うことを動力として回転し、循環する。だがこの回転は、一回転ごとに別の存在、別の世界をたちあげる運動であって、再帰性はあっても、同一物を回帰させるものではない。よってこれは表象ではない。
デュシャンの作品において回転するものは特別な意味をもち、だから自転車の車輪をさかさまにしたような作品は決してレディメイドではないと思う。というか、デュシャンの作品が美学的ではないという時、それはこのような意味――表象ではない――なのであって、コンセプチュアルであるという意味ではないと、ぼくは思う。)
≪芸術作品は、触発する仕事のインデックスだ。それは《アルールのシラハのブランコ》のような再帰性を持っている。このインデックスは、イコンとシンボルと折り重なり、相互に入れ替わり、変奏しながら、あの《大ガラス》のように振幅運動する。そしてインデックスはイコンに(あるいはシンボルに)、イコンはシンボルに(あるいはインデックスに)、シンボルはインデックスに(あるいはイコンに)ゲシュタルトしながら、これに関わるパーソンを触発して、触発される。この反復によって、私と作品、私と他者、私と世界の間で、僅かな変容、時には大きな変態を伴った図式の転移が起きている。≫