iTunesで、jjj周辺の人たちの曲を(アルバム単位ではなく)何曲かランダムに買って聴いてみたのでけど、とりわけKID FRESINOのラップがすばらしくて魅了された。すごく難しそうなことをやっているというだけでなく、不思議な昂揚が喚起される。
KID FRESINO - Turn.(who do) ft. jjj
https://www.youtube.com/watch?v=zWK2Iuxcp8o
Arµ-2 - Backward Decision for Kid Fresino / Keep Rollin'
https://www.youtube.com/watch?v=95D5l35CSMo
清水高志さんがツイッタ―で、パースの記号(イコン、インデックス、シンボル)とアブダクションをジェイムズの純粋経験を結び付けているけど、これ、けっこうすごいことを言っているのではないか。じっくり考えるために、メモとしてまとめて引用しておく。
《ジェイムズを経由するとパースの言っていることはすごくよくわかる。経験と経験の連接も(それじたい一回的な)経験である、ということをジェイムズはいうが、パースは経験と言わずに記号と言い、しかも構造がやや複雑になっている。》
《まず①最初にある経験がある。これは他の経験と(ジェイムズ風に言えば)連接するべきものとしてあるので、個別的性格を薄められたものとしてある。これがイコン的な段階。。》
《②次に①と別の①が連接する経験があり、それがインデックス的なもの。これだけでもなんらかの経緯の予測たりうるのだが、まだ確証がない。③最後に別の経験が「①と別の①が連接した」経験と同じ状況を描き出す。これは、ジェイムズ風に言えば過去の経験の追認。②に事後的に確証が与えられた形。》
《これがすなわちシンボルの段階。①Cという未知の出来事があり、②AであればCということが言える、という結びつきが浮かび、③CであったのだからAは正しかったのだ、という形で論証に確証が与えられる。そういう形。。》
《ジェイムズだと、追認が起こった時点で、過去の経験は後の経験を「予期していたということに事後的になり、そこで主客の分離が起こる。パースの場合、でているのはすべてオブジェクトないしは経験であるのだが、「オブジェクトないしは経験どうしの結びつき」というインデックス的な事例は命題でもあり》
《それがまた「オブジェクトないしは経験」によって充足される。そしてそれらすべての過程がアブダクションであり、「記号」だと敢えて言われるのである。》
《事後的に主体としての経験が分離されてくる過程で、それが二層になっている。(インデックス)主体となる過去の経験は、複数あって関係であると。でもなんか垂直二層なのが物足らないなぁ。》
《シンボルは決して抽象的な記号体系としてあるわけではない。論証の最後の段階ででてくる、充足するものとしての「オブジェクトないしは経験」が、複数の推論を同時に充足するとしたらどうなんだろう。。というか、日常的に我々はそんな風にしてしかアブダクションしていないはず。》
《論証の最後の段階ででてくる、充足するものとしての「オブジェクトないしは経験」が、「違ったもの」であった場合、別のインデックスが動員されてアブダクションが修正される。。ジェイムズ風に考えれば、主体はその予期を後の経験によって充足されることによって主体となるが、このとき可謬性の問題は》
《どうなるのだろうか。インデックスが別のインデックスに取り換えられる。これはアブダクションのある意味での強靭さを証すものであるはずだが、主体は経験を拡張していったわけではない。横にあるインデックスと置き換わったのである。メーティスとしてのアブダクションは、》
《可謬性のありかたに基礎を持つ。そして、インデックスとインデックスが「横に置き換わる」とき、客体−主体間でなく、後に出てくる客体を軸として、主体−主体間の優位の奪い合いが生じている。この状況は、きわめてパースペクティヴィズム風でありヴィヴェイロス的である。》
《このとき、後に出てくる客体の側に立てる主体、予期、インデックスが「主体的 なのである。メーティスはそこにおいて成立する。世界そのものがこうした複数のメーティス、アブダクションによって織りなされているのであれば、そこに生まれる「習慣」は詐術に満ちている。》
《そしてそれをかいくぐって成立している「習慣」、持続的な経験の連接が、生命なのだとしたら、それらは互いに囮的なわざとらしいアブダクションの形態を相手に示しあっているはずだ。エドゥアルド・コーンが「形式」と語るものもそんなものだろう。》
《ただし、コーンがアニミズムのうちの無機物の要素を重視しない、というのは確かに問題で、木であれ岩であれ、持続的に存在しているものは「習慣」を成立させているからそれは「狡知を持つ」生命と同じなのであって、そうした世界観をもつインディオは正しいということになる。》