●一昨日の日記に書いた、指標(インデックス)から促されるアブダクション(推論)によってレシピアントが生じ、そこから遡行的に指標の原因とされるアーティストと、指標によって表象されるプロトタイプが措定されるという話は、一見、テクスト論的な傾向に似ているようにも思われる。テクストから読者が何かを読み込むことで(テクストが読みを誘発することで)、テクストは作品になり、作品はその効果として、その原因としての作者を生む、というような。しかしテクスト論はそこで、作者を超えたテクストとテクストとの間テクスト空間を見出しそれを問題とする(イメージであれば、アビ・ヴァールブルク的なムネモシュネやリヒターのアトラスみたいな感じ)。一方、指標による推論誘発性を問題にする場合、指標は、間指標空間をつくるのではなく、その推論誘発性を通して、様々な「アーティスト」「プロトタイプ」「レシピアント」を生じさせ、様々なものの間の関係を結びつけては、解きほぐす、結節点、交差点のようなものとして機能する。それはいわば、複数の文脈における複数の作者(指標−アーティスト関係)を見出す。例えば、作品を、生産−流通過程という社会的関係のなかでとらえようとすることもまた、このような見方の一つだとは言えるけど、たがそれは社会関係を固定的にとらえがちだ。ジェルのアート・ネクサスは、もっと大きく(あるいは小さく)、柔軟で多層的に連鎖関係を捉えうるのではないか(例えば一昨日書いたように、「運転手の苛立ちの態度」という指標が、「自動車の故障」と「犬」とを関係付け――自動車と犬の間に文脈を生み――「自動車の悪意」を生産する、というような)。といってもジェルの本を直接読めているわけではないけど。
テクストという概念は、テクストとテクストとの間の横の関係を問題とし、指標という概念は、一方にレシピアントとの関係を、他方にアーティストやプロトタイプとの関係を生み出すことで、いわば縦に作用(連鎖)する概念と言える。前者を隠喩的関係性、後者を換喩的関係性と言うと、ちょっと分かり易すぎるか(横の関係のなかにも隠喩的なものと換喩的なものがあり、縦の関係のなかにも隠喩的なものと換喩的なものがある、のだから)。この両者を同時に考えなければいない気がする。横の関係がつくる文脈が、(誘発される推論の形成に影響することで)縦の関係の文脈に影響し(例えば、「罠(猟師−罠−獲物)」という縦の文脈は、より大きな地――横の文脈――としての「森の知恵」を背景にもつ、というような)、縦の文脈の様々な結び直しは、横の文脈の新たな編成し直しを要求するだろう(例えば、森林開発による縦の関係の再編成で「森の知恵」が失効し横の文脈が別のもの――「木材としての価値とCO₂の吸収効率」――による配列へと変質してしまう、とか)。横の関係を動かし得るのは縦の関係であり、縦の関係を動かし得るのは横の関係なのではないか(横は縦の地となり、縦は横の地となる)。
罠(猟師―罠―獲物)という関係が成立するのは、その背景に偉大な森の知恵が働いているからだとも言えるけど、逆に、森の知恵という潜在的な力は、個別に作動する罠(猟師―罠―獲物)がちゃんと作動することによってはじめて、その背景に働いていると想定される(信じられる)ものだとも言える。縦の文脈も横の文脈もどちらも、互いに相手が作動していることが「想定される」ことによって成立する(横は縦の地となり、縦は横の地となる、とはそのような意味だ)。であるなら、縦から見れば横、横から見れば縦は、常に暗黙の前提であることによってブラックボックスであり、自分を支える地である他方が、知らないうちに変質していたり、別の何かとハイブリッドになったりしているかもしれないし(であれば、自分は、自分とは無関係に、あずかり知らぬところで、そうとは知らないうちに、根本的に変質してしまっているかもしれないし)、そのことを抑制したり制御したりすることは出来ない。
このような、縦、横どちらの文脈も同時にそれぞれの可変性をもちつつ、しかし同時にどちらもが他方を前提として、変化しつつも交錯しているような複雑な過程を捉えるにはどうしたらよいのだろうか。