●吉祥寺の古本屋「百年」で、只石博紀さん(『季節の記憶(仮)』夏篇)とトヨダヒトシさん(『An Elephant’s Tail ―ゾウノシッポ』)の作品上映があり、その後、お二人とトークするイベントがあった。
(あと、十月に「百年」でぼくの作品の展示をすることになりました。)
●トヨダさんは、写真をポジフィルムで撮影し、いっさいプリントすることなく、スライド上映のみで作品を発表している作家。『An Elephant’s Tail ―ゾウノシッポ』は、そのような形で発表をはじめた最初の作品で、93年から95年に撮影されたカットから構成されているという。
トヨダさんは、上映の時には必ず自分でスライドを操作して、一つのカットから次のカットに移るタイミングを、その場で決めているという。それはつまり、トヨダさんの作品を観る時、その場に必ずトヨダさんがいるということで、トヨダさんがいないところでトヨダさんの作品を観ることは出来ないということだ。作家と作品を切り離せない。これはかなり特異なことではないかと思う。
例えば、トヨダさんが自分でギターを弾いて歌うミュージシャンであれば、ライブのみを行い録音はしないという態度もあり得るかもしれない。しかし、トヨダさんの作品はすでに撮られたものであり、それが映し出される順番も、スライド装置に設置された時点で決定している。作品の主題も、今ではなく過去であろう。つまり作品はライブではなく予めあり、上映を他人や自動装置にゆだねることも出来る。しかしトヨダさんは、毎回必ず上映される現場に行き、上映を見ながら自分でカットを一枚一枚送って、イメージがあらわれ、消えてゆくタイミングを操作する。トヨダさんは原理的に、トヨダさんの作品が「この世界に現れた」その全ての場面、全ての機会に立ち会っている。トヨダさんが見た回数しか、トヨダさんの作品はこの世に現れない。
これはつまり、トヨダさんが過去を回想する場面を観客が共有しているということにかなり近いのではないだろうか。
写真のインデックス性ということが言われる場面がある。インデックスとは、パースの記号論で記号とそれが指示する対象の間に物理的な接触関係があるような種類の記号のことを言う。例えば、建物から上がっている煙が「火事」を意味しているというようなとき、その煙は記号の種類としてはインデックスである(記号は他にイコンとシンボルがある)。
写真は、実際にその場にある光がレンズを通してフィルムに直接的に化学的変化を起こさせるという点でインデックスであることになる。しかしこれはフィルム(あるいはダゲレオタイプの写真)にのみ当てはまることであり、我々が通常「写真」として見ているのは、フィルムから印画紙に焼き付けられた像であり、それがさらに複写されたものである。その意味では、オリジナルの文脈とは無関係にいくらでも反復可能な写真のイメージは、オリジナルとの直接的接触(インデックス)というよりも、オリジナルからの切断という意味の方が強い。
しかし、スライド(ポジ)フィルムにはインデックス性があり、それを上映することはインデックスのインデックスではあっても、オリジナルな「その出来事が撮影された場面」から完全には切り離されていない。しかも、その上映を行うのは常に、それを撮影し、またはその場面を実際に経験したトヨダさんなのだから、この上映そのものにはインデックス性が刻印されている。
記憶というものを、出来事が脳に刻まれたものだとすれば、記憶はインデックス的であると言える。
出来事は、インデックスとして、一方でトヨダさんの脳に刻まれ、もう一方でポジフィルムに刻まれる。この二つは、重なっているとともに分離している。トヨダさんが自分の手で上映を行うという行為は、その上映の度に、重なりつつも分離している二つのインデックス(記憶と写真)との間にある対応関係を確かめるという行為でもあるように思われた。上映は、フィルムに刻まれた記憶と脳に刻まれた記憶による二重化された「回想(想起)」であり、トヨダさんの頭のなかを直接見ることの出来ない観客は、外在化された記憶であるフィルムの明滅のリズムを通して、トヨダさんによる回想を共有するのではないだろうか。勿論それを完全に共有することは不可能であるが、そのような二重化があるからこそ、現れては消えてゆくイメージとイメージの間の欠落が、欠落以上のものを語りはじめるのではないか。
ぼくが知る限り、そのような作品を経験したことがないので、とても興味深かった。
(つづく)