(昨日からのつづき)
●只石さんの作品の何がそんなに良いのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/edit?date=20140607
まず、映っている場所の天気がとても良い。そして、映っている河原の空間がとても気持ちよい。つまり、作品というより「映っているもの」がすばらしいと言える。しかし、最高の天気の気持ちの良い場所を、ただ撮ったとしても、それがそのまま映るというわけではない。動画だろうが静止画だろうか、写真というものには決定的に「空間」が映らないことを、多少でもカメラをつかったことがある人なら知っているだろう。
このような空間の気持ち良さを、例えばブーダンが、モネが、スーラが描いている。あるいはジャン・ルノアールが『ピクニック』をつくっていた時にもこれに近い感覚をとらえていたと思う。しかし、それらの絵画や映画によって表現される感覚と、『季節の記憶(仮)』という作品で表現される感覚とは同じではない。しかしおそらく、海を描くブーダン、河原を撮影するルノアールは、只石さんや出演者たちが河原で感じていた感覚とそんなに遠くないことを感じていたと思う。それでは、何が同じで何が違うのだろうか。
作品が作品として現れる条件として、大ざっぱに次の三つくらいの次元が考えられる。(1)科学的(2)社会的(3)個別的。例えば、セザンヌの絵の「感覚」が現在でも再現されるためには、(1)百年前に描かれた絵がほぼそのままの状態で保存され得る油絵というテクノロジー、と(2)セザンヌは偉大な画家だから作品は保存され展覧されるべきだという社会的なコンセンサス、と(3)その絵を見て共振する(その感覚を解凍する)「わたしのクオリア」という、異なる次元の絡み合いが必要であろう。作品、あるいはメディウムとは、この三つの異なる次元が、どのような配分、どのような形態、どのような接続によって絡み合っているのかで決まると言えるのではないか。
只石さんの作品においては、(1)片手でつかんで持ち運びできるデジタルビデオカメラが可能であるテクノロジー、(2)そのようなカメラが安価に手に入るような「商品」として流通している社会、(3)それをこのように使おうとする撮影チーム、というところだろうか。そして、この(1)と(2)の部分がブータンやルノアールとは異なるので、必然的に(3)のやり方も異なることになる。
三十分ワンカットのカメラが俳優たちによってパスのようにまわされる只石さんの作品では、カメラが世界を写す「視点」というより、複数いるプレイヤー(俳優たち)と同等の「対象」の一つとなっているように感じられる。カメラはカメラ自身を写すことはないが、乱暴に持ち運ばれ、時に激しく揺れ、ガツッと音をたてて置かれるカメラは、自分自身が「物」としてあることを、カメラによって撮られる映像と音を通じて自己言及している。カメラは、フォーメーション(ネットワーク)を捉える(写す)ものではなく、ネットワークに組み込まれている球技のボールのようにある(しかし、球技と違ってゴールという方向性はない)。
もう一つ、それと矛盾するようだけど、『季節の記憶(仮)』における「カメラ」の意味の不思議さは、カメラは物質的にはあきらかに「ある」のに、「ない」ことになっているという点だろう。カメラの前(対象)と後ろ(特権的な撮影者)という区分がないという意味で、いわゆるPOV的なフェイクドキュメンタリーと近いとも言えるが、しかし、POV的な技法ではフィクションのなかにもカメラは「ある」(登場人物の誰か、あるいは監視カメラなどがその場面を撮っているという設定がある)のだけど、(あるいは古典的な映画では特権的な視点であって世界のなかにカメラは「ない」のだけど)只石さんの映画の登場人物たちは、自らの手で物理的にカメラを運んでいるにも関わらず、河原でピクニックをしているという虚構の設定の次元の彼らにとって、カメラは「ない」ことになっている。
カメラは、世界の外から世界を捉える特権的な視点ではないが、しかし、世界の内部にある(交換可能な)任意の視点でもない。カメラは、世界の(関係の)外にではなく、世界の(関係の)内にあるのだが、しかし、関係を構成する他の結節点(登場人物や様々な物や光)とまったく同等な物というわけでもない、ややずれた次元にある。カメラは、明らかにあるのに、ないことになっている。
『季節の記憶(仮)』という作品のすばらしさの原因の一つに、そのような「ある、のに、ない」という特異な「カメラの役割」を発明した、ということがあるのではないか。