●ニュー八王子シネマに『Future tense』(只石博紀)と『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(黒川幸則)を観に行く。只石博紀さんは『季節の記憶(仮)』をつくった人。「ヴィレッジ…」は、劇場で観るのは五回目だ。
●『Future tense』。『季節の記憶(仮)』が、何かを強引にぽーんと開いてしまったような作品だとすると、こちらは、繊細に、周到に作り込まれたような作品。上下へのパンはあったと思うけど、基本的に長回しで据えっぱなしのカメラが、母の十周忌のために人々が集まる実家の、ごく限定された一角を映し出しつづける。そして、フレームとは関係のないところで、会話がなされ、テレビから音が聞こえ、他にもさまざまな音が聞こえてくる。寡黙な視覚と、饒舌な聴覚。
母が亡くなり、子供たちが独立し、おそらく普段は父一人で住んでいる実家に、法事のために人が集まって(帰って)くる。まず、母方の祖母と只石さんが、そして翌日に、弟夫婦が。映画は、窓を撮るいくつかのカットからはじまり、次いで、テレビで高校野球を観るお婆さんが映し出される。
カメラは、墓参りに出る時以外は、常に家のなかにあり、映画は室内を映しつづける。フレームは、もしデジタルカメラというものがなかったら、人は空間を決してこんな風に知覚することはないであろうという感じで空間を切り取る。とはいえ、非人称的なまなざしなのかと言えば、そうでもない。カメラが切り取る構図は、おそらく作者である只石さんと家族との距離感を正確に反映している。法事のためにやってきた母方のお婆さんや、弟の奥さんとカメラの間には気軽な距離感があり、父親とカメラの間にはやや気まずい距離感があり、弟とカメラの間には、目も合わせないというような、不思議な遠慮を感じる距離感がある。
●買い物のためのメモをとるお婆さんの手元が映し出されている時、お婆さんと父との会話を只石さんが媒介する。ワカメはあるのか。ワカメを何に使う。味噌汁に入れる。余っても使わないからある物を使ってくれ。乾燥したやつじゃなくてナマのを買ってくるから。微妙にかみ合わない会話。そしてそれを只石さんが繰り返す。画面の外でこのようなやり取りがある間、画面上では、紙に文字が書き込まれ、紙が風で飛ばされそうになり、一度折り畳まれ、再び開かれて何かもう一品書き足される(これが何だったかもう思い出せない、たまごだっけ?)。
●カメラは光を捉え、マイクは音を拾う。この家で起きている事柄を、見たり、聴いたりしているのは誰なのかと考えると、それはやはりカメラではないかという感じがある。『Future tense』と『季節の記憶(仮)』に共通点があるとすれば、カメラの存在感というものが映画の中心に置かれているというところなのではないか。フレーム=視点(眼)としてのカメラではなく、絵を撮り音を録る機械としてのカメラ、箱状の物体としてのカメラが、ある具体的な空間のなかに置かれている。フレーム内とフレーム外があるというより、カメラという箱は、360度からくる音と、きわめて狭い画角の映像を記録する機械だと考えると、カメラの前とカメラの後ろという概念が消えて、カメラのまわりの空間すべてが問題になる。
カメラの前/後ろと考えると、カメラの後ろ側には、カメラを操作する人がいて、その人がフレームの外からフレームを操作しているという感じになる。そうではなく、カメラは箱であり、六つの面で世界と接していて、たまたまその一つの面の方向に空いた穴から映像を記録する。例えばカメラの下の面は、三脚を介してだったり、直にだったりして、地面もしくは水平の面の上に乗っている。撮られた映像はその安定性によってその事実をも示している。映像は、カメラの下の面と地面との関係をも表現している。そう考えることで、映像=スクリーン=平面ではなく、カメラの周囲の空間(と時間)すべてとカメラの関係の一部を、映像と音声としてカメラが記録するというイメージが得られる。
カメラは、世界を切り取る窓であるというより、六つの面で世界と関係する箱であり、そのような箱としてのカメラを、実家の空間や時間のどの位置に、そして、家族の関係のなかのどの位置に置くのか、ということによってつくられているのが、『Future tense』という映画なのではないかと思った。
キッチンで、母方のお婆さんと弟の奥さんが仕事をしているところを窓の外から撮っているカットがあった。ここでは、カメラを操作している只石さんも、窓ガラスに映ったぼんやりした像として映り込んでいる。このカットを、撮影対象と撮影主体とが同時に映っているカットとみるのではなく、カメラのレンズの面とその反対側の両側に向かって広がる空間が捉えられたカットだと考えた方がいいと思われる。この映画をつくっているのは只石さんだけど、この映画を「撮っている」のはカメラであり、カメラに対しては、只石さん自身も、他の出演者とまったく同等な撮影対象であるのだから。
(このカットでは、カメラの後ろに只石さんがいるのだが、おそらくほとんどのカットでカメラは据えっぱなしであり、カメラの後ろに人---操作する人---はいないと思われる。このことは、『Future tense』という作品がつくりだしている時空の感触に、すごく大きく影響しているのではないかと思った。)
●『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』は何回観ても面白い。そして、繰り返し観れば観るほど、「速さ」の印象が強くなる。この映画は、カットの切り替えも速いし、シーンの展開のもすごく速い。だけど、最初に観た時は「速さ」の印象をほとんど感じなかった。そして、観直す度にどんどん速くなってくる。
(おそらく多くの人にとって、この映画を最初に観るときはゆったりした流れの映画と感じるのではないか。何人かの人が、この映画を観てリヴェットを連想している---ぼくも連想した---が、実際、この映画はリヴェットにはまったく似ていない。でも、なぜかリヴェットを連想してしまうくらい、ゆったりと感じるのだと思う。)