●新しいパソコンのディスプレイの感じをみるために、何か映画を見ようと思って、U-NEXTでなんとなく『夢二』(鈴木清順)を選んで、観た。この映画は、公開された年(91年)に映画館で観てイマイチだと思ってそれ以来観ていないから、27年ぶりくらいに観たことになる。前に観た時の印象よりもずっと面白く感じた。
『夢二』は大正三部作の三作目ということになっているけど、『ツィゴイネルワイゼン』は80年で、『陽炎座』は81年なので、前の二作から十年くらい間があいていて、三部作というよりもむしろ、さらに十年後(2001年)につくられた『ピストルオペラ』の方に近い感じがする(脚本を書いた田中陽造にフォーカスすれば大正三部作になっているのかもしれないが)。公開時にイマイチだと感じたのは、三部作の前二作とは調子が違うし(画面のサイズも違うし)、その間に挟まれた『カポネ大いに泣く』(85年)ほどデタラメな感じでもないので、中途半端に大正ロマン的なもの(わかりやすい美的なイメージ)に日和ったようにみえたからだと思う。
しかし、『陽炎座』、『夢二』、『ピストルオペラ』を三部作と考えると、やっていることがだんだん進展している感じがみえるように思った。
(鈴木清順は九十年代に、『夢二』と『結婚』(93年)の二作しか映画を作っていないのだけど、『結婚』は、上の三作の系列ではなく、『結婚』から『オペレッタ狸御殿』へとつづく、もう一つの別の系列があると思う。たとえば『悲愁物語』(77年)では一体化していたものが、ここで『夢二』と『結婚』という二つの系列に分岐しているのが興味深い。)
陽炎座』『夢二』『ピストルオペラ』でやっていることは、人物をなるだけ動かさないで、どうやってアクションを生起させるかという試みを徹底する、ということだと思う。『陽炎座』の場合、人物というよりカメラを動かさない。ほとんどのカットがフィックスで、人物もあまり大きく動かさない。『夢二』の場合は、カメラはかなり自由に、大きく動くのだけど、その分、人物の動きはさらに大きく制限されているように思う。人物の動きとともに空間が展開するというカットがまったくないわけではないのだけど、それはとても少ない。多くの場合、人物はある場所に固定されていて移動することが少なく、立ちん坊のようであり、その分、カメラ(フレーム)が動いたり、カットが頻繁にかわることで動きやリズムが生まれる。そこでは、なめらかな空間のつながりが切断されていて、カットとカットの間は、時空の秩序ではなく、意味やイメージや色彩や比喩や言葉による連続性、あるいは、トントントンと刻まれるリズム的な「転がり」によってつなげられている。もともと鈴木清順はそういう作風ではあるのだけど、人物から動きの多くを奪うことで、時空間の非連続性がより徹底されている。というか、カットとカットのつながりの根拠が常識的な時空間の連続性に依存する度合いが、以前に比べてもより低下している。ほとんど全編、それで押し切るという感じに近づいていく。『陽炎座』より『夢二』の方が、そして『夢二』よりも『ピストルオペラ』の方が、よりそうなっているように思う。
カットとカットの間の時空的なつながりが切断され、カット内での動きも制限されていることで、アクションが、映画によって表象される空間の内部で起こる人物や事物の動きとしてではなく、映画そのものの流れとして生じることになる。映画のなかに時空が生まれるのではなく、異質な時空の接合(と断絶)として、あるいは非連続的なものが跨ぎ超えられることで生じるショック(断層)を含んだでこぼこした流れとして、映画の流れそのものがアクションとなる。つまりフレームそのものがアクションを起動させる。
それは、映画内部の(表象される)時空に対してはメタ的な位置にあることになるが、だからといって、映画の外側からフレームを操作しているという感じでもない。アクションは、フレームの内にあるのでも、外にあるのでもなく、フレームの流れと進展と跳躍としてある。フレームがアクションであり、アクションとフレームとが限りなく一致するという事態に近づいている感じ。
(一方、『結婚』や『オペレッタ狸御殿』で起きていることはそれとはまた異なることだろう。こちらでは、スタジオという空間の特異的な抽象性が利用されていると思う。スタジオという---通常はあり得ない---高度に抽象的な空間のなかから、セットとカメラという装置を工夫して使うことで、どのような時空を引き出し、作り出すことができるのかということが試みられている。つまり、こちらでは現実的な時空の連続性が前提とされているのだけど---長回しが多く使われている---その時空はそもそも、スタジオというとても抽象度の高い特異的なものなのだ。そこにどのようなセットを組み、そのなかを、俳優やカメラをどのように動かせば、そこからどのような面白い---トリッキーな---時空を切り出すことができるのか、と。いわば、スタジオ空間の抽象性のポテンシャルが探求され、そこから特異な時空がつかみとられているのだと思う。)