●U-NEXTで『20世紀ノスタルジア』(原将人・97年)を観ていた。前に観たのがいつだったか忘れたけど、VHSで観たはず。もっていた印象とはかなり違って、ベタによい青春映画だった。とてもよかった。
当時、広末涼子は、今でいうと誰とはいえないくらい特別に人気があって、そういう人の人気絶頂期の映画が、まるで無名の新人であるかのように撮られているという意味で(有名人なのに匿名性がある、というか)、奇跡的な作品と言えるのではないか。きちんと照明をあてて美しく撮るとか、そういうこととは別の(ビデオの粗い画像ならではの)やり方ではあるけど、広末涼子をとても丁寧に撮っていると思う。男の子(圓島努)の配役も絶妙で、相手がこの人だから、広末涼子が芸能人っぽくなく映っているのではないか。
ウィキペディアをみると、広末涼子がブレイクする前の1995年8月に撮影が開始されたが、一時中断されていて、ブレイク後の1997年1月に撮影が再開されたと書かれている。一度ポシャりかけた企画が、主演女優のブレイクによって復活したということだろうか。
(原将人広末涼子という企画が、いったいどういう経緯で成立したのだろうと疑問に思っていたのだが、最初の時点では無名の人を使った地味な企画だったということだろう。)
夏休み中に仲良くなった男の子と二人で撮っていた映像を、男の子が突然遠くに行ってしまって、二学期になってから一人で、映画として完成させるために編集している(自分と男の子との関係を探り直しながら)、という話なのだが、夏休み中の場面がブレイク前に撮影されて、二学期の場面がブレイク後に撮影されているということらしい。夏休みと二学期との落差として、一年半ちかい時間の落差と、無名の人から超人気アイドルへのブレイクという落差が一本の映画のなかに埋め込まれている。夏休み中と二学期、二人でいた時と一人になった時という違いが、一年半という時間と、ブレイク前と後という環境の違いとしてあり、そしてそれが映画の編集という作業---物語内でも、この映画自身としても---を通して混ざり合う。これは狙ってもできない、奇跡的な幸運だろうと思う。
(ウィキペディアには、撮影再開に際してシナリオも改変されたと書かれている---広末涼子中心の映画へと改変されたのかもしれない---から、映画自身にも、最初の撮影の時と、二度目の撮影の時との間には断層があって、その落差が編集されて混ざり合っているということになるのだろう。)
●主人公の二人がビデオで『勝手にしやがれ』を観るという場面がある。『勝手にしやがれ』を上映中の(ポスターの貼ってある)映画館まで二人で行くのに、映画館では観ずに家でビデオで観るというところが(ビデオカメラでお互いを撮り合っている)この映画のミソなのだが。二人は『勝手にしやがれ』を、映画館ではなくマンションの部屋で、小さなブラウン管テレビにVHSの画質で観ている。この映画は、映画だけどそういう映画だ。
観終わった後に二人が、面白かった、三十年も前の映画なのにちっとも古くないと言い合っているけど、そう言っている「この映画」が、すでにもう二十年以上も前のものになっている。その時間の経過を、この映画の画質が物語っているが、しかしこの画質は、この映画の作品としての質感と必然的なつながりをもって重なっている。つまり、それを古さ(や懐かしさ)としてではなく、この映画の固有性として感じる。
ビデオカセットがカメラやデッキにセットされてから、テープがヘッドに絡みつくときの「ウィーン」という音やその間も、撮影機材にかんするノスタルジーを誘うのではなく、この映画として必要なプロセスの一部として感じられる。