●池袋テアトルダイヤで『魔法少女を忘れない』(堀禎一)。これは観られてよかった。出来ればもう一度観たいけど、20日までだから無理かもしれない。一回観ただけでは、これは一体なにごとなのかと、ただただ呆然とするばかりだ。DVDが出たら絶対買う。
この映画は明らかに、二十一世紀版へと更新された『翔んだカップル』(相米慎二)であり、二十一世紀版『時をかける少女』(大林宣彦)であり、二十一世紀版『パンツの穴 キラキラ星みつけた』(鎮西尚一)であり、少女の(そして少年の)表象をめぐるアイドル映画と呼ばれる特殊な一群の作品の突端に位置するものだと思うのだが、しかし同時に、それらのどれとも似ていない、まったく新しい何事かとして出現していると思う。この映画はデジタルで撮影されていると思うのだが、同じくデジタル撮影された『ゴダール・ソシアリスム』を撮ったゴダールが観たらどう思うだろうかと考えてしまうような作品でもある。だが勿論、この映画は日本という特殊な土壌で、おそらくラノベの愛読者を主な観客として期待してつくられている点で、ヨーロッパのアート系、シネフィル系、インテリ系の作品と同列なものして回収可能ではない(ブレッソン的な、ロメール的な少女とかともあきらかに違う)。要するに、とにかく何がどうなっているのかよくわからなさ加減がすごい。
いきなり、「私は半年前まで魔法少女だった」とかいう設定が当然のようにまかり通るし、メガネ少女は終始時代劇口調で喋るし、教師が生徒に「女性ならみんな魔法少女がいることを知っている」としんみりと語りかける…。魔法少女のことはいつかはみんな忘れてしまうのだ、という設定が、いつの間にか何の説明も裏付けもないままに「そういうこと」として受け入れられてしまっている。アニメだったら普通かもしれないけど、実写をアニメに近づけているということとは全然違う。アニメのキャラだったら成り立つかもしれないけど実写でそれってたんに寒いだけでしょう、ということを堂々と(実写的に)やり切っていて、しかも、それによって成り立っているかといえばひたすら微妙なのだ。しかしその微妙さこそが、今までに見たことが無い、以前のアイドル映画とも、他のアート系インテリ系の映画とも違う、この映画にしかない不可解な感触を生み出している(でも、語学が堪能な人が観たらゴダールとかストローブ=ユイレとかもけっこうこんな感じなのかも、という気もする)。
さらにそれは、たんにナンセンスで不条理でエキセントリックであることが面白いというのではなく、現実的な、思春期の少年少女の存在(身体の)のリアリティを、(直視するのが気恥ずかしいくらいに)生々しく捉えてもいる。少年も少女も女教師もあまりにエロ過ぎて観ていらないくらいだ。こんな風に人物を捉えるカメラを、他の映画で観た記憶があまりない。おそらくこの点こそが最も重要であろう。わけがわからなくて唖然とするのと同時に、一つ一つの描写はきわめて丁寧でオーソドックスであるようにも感じられる(とはいえ、一面では大胆な乱暴さもあって、メガネ少女が海でおぼれそうになる場面など、えーっ、それってアリなの!と驚かされる)。へんなのにオーソドックス、オーソドックスなのにへん。堀禎一がつくるラノベ原作のアイドル映画は、『妄想少女オタク系』、『憐 ren』につづいて三本目で、基本的に今まで書いたことはどれにも当てはまるのだが、それがどんどん鋭く尖がってきて、唖然とされられる度合いが高くなっきてている。『憐 ren』にも相当驚いたけど、この映画はそれを軽く越えてしまっている(「みんな、みらいのこと忘れちゃうよ」という場面の唐突さには震撼させられた)。
突飛で非現実的だというだけでなく、普通に考えれば幼稚で白々しく気持ち悪いとさえ感じられるラノベ的な設定、場面、セリフが、描写の力によって微妙かつリアルで生々しい感触をもつものとなる。描写というのは一体何なのだろうかとつくづく思う。昨日書いた、抽象性(形式性、具体性)と具象性(物語性、象徴性)とを危うく、その都度、その場で可能な唯一のアクロバティックなやり方で結びつけるのが描写ということなのだろうか。
全体として「白い映画」という印象がある。画面に映っているものの多くが、白か、クリーム色か、色味の薄いグレーで占められている(しかし、魔法少女の忘却の発端となる体育館でのバスケの場面---この忘却の唐突さがまた素晴らしいのだか---では、いきなり画面に色彩が溢れる)。この、白からグレーのトーンの繊細さがこの映画の描写の基盤となっているように思う(そこに射し込まれる緑)。そしてこの映画は、白いのと同時に、徹底的に「乾いて」いる。堀禎一に特徴的な水辺のシーンもあるし、登場人物たちは海水浴に行きもする。しかしこの映画の登場人物たちは、ずぶぬれになってさえ「乾いて」いる。映画の多くの場面が夏なのだが、この映画の夏の空気には湿気がまったくないように見える(おそらくそのことと、この映画の「白い」感触とは関係がある)。登場人たちは顔を赤らめることはあっても、決して汗ばんだりしない(汗をぬぐう仕草があったとしても)。おそらく、画面の湿度の低さは黒沢清以上だと思う。この映画の登場人物たちは、少年も少女も女教師も、直視するのがためらわれるほどのエロを発散しているのだが、そのエロには陰や湿ったところが一切ない。それは常に白く光って乾いていて、(花粉のように粉上になって)外に向けて発散されている。だからこそ、その表情や震えが繊細に拾われることが可能になる。これは特筆されるべき点ではないか。
あと、誰もが思うだろうけど、この映画の自転車はすごい。「映画と言えば自転車」というのはもはやクリシェですらあるけど、でも、こんな風に自転車を走行させる映画は、他であまり観た憶えがない。
主役の四人のキャスティングが完璧。この四人でなければこの映画は成り立たない(もし違う人だったら、違う形の映画となっただろう)。それは、「この役」に最適な「この人」を当てはめたということではないのだ。つまり、この四人の、この映画の撮影時の身体が、この映画に不可分に刻まれている、というだけでなく、この身体こそが(このような形となった)この映画を起動し、進展させ、生み出しているのだということだと思う。映画が俳優の身体を捉えるのではなく、俳優の身体が映画を動かす根本的な力となっている。こういうことはアニメでは絶対出来ないと思う。最初、そのあまりの媚態にややたじろがされる主人公の少女は、その姿をずっと見続けているうちにオブジェのように見えてきて媚態がそれほど気にならなくなるのだが、オブジェのように見えてくることで、逆説的にその身体が生々しく、生き生きと見えてくる。
ここまで書いてきても、この映画の面白さには全然かすっていないような気がする。普通に、呆然とさせられる、生き生きしている、生々しい、意表をつかれる、戸惑わされる、エロ過ぎる、と言えばいいのか。あるいは、ひとつひとつの場面をもっと具体的にみていかなければ…。とにかく、もう一度観てみたいし、あと何回も繰り返して観たい。
(ただ、前半や中盤のぶっとばしぶりに比べ、終盤、ちょっと勢いが落ちている気がした。観ているぼくの方が疲れてしまったのかもしれないのだが。)