●昨日ずっとハルヒ漬けだったので、感覚をリセットするために『流れる』(成瀬巳喜男)をDVDで観ていたら、あまりにもすばらしくて、一度最後まで観てから、すぐにもう一度繰り返して観てしまった(今までにも何度か観てはいるのだが、今回が最も強く生々しく入り込んできた)。過激であるというのは端正で繊細であるということで、こういう作品のことを前衛的というのではないか。
『流れる』の話は八割がたが一軒の建物のなかで起こるのだが、この空間が本当にすばらしい。空間を生かすように人物が動き、同時に、人物が動くことによって空間がたちあがり、そこに息が吹き込まれる。空間を尊重したモンタージュが行われ、同時に、モンタージュによって空間が動き出す。あるいは、人間たちの関係が空間のなかに配置され、同時に、人間たちの関係(の推移)が空間の表情に変化を生む。基本的に、どのカットの構図も、モンタージュも、人物の動きも、空間(という枠)との関係のなかに置かれているのだが、時々、人物の動きが空間から切り離されるようにふわっと浮き上がる感じがあって(動きそのものが空間という根拠からふいに切り離されて不安定に露出する感じ)、それもまたすばらしい。
この映画の、空間を捉える(生成する、動かす)柔軟さと自在さを観ていると、ぼく自身のなかでも、何かが動く感じで、刺激される。ぞわぞわしてくる。
決して広くはない一軒の家の空間と、そこに出入りする女たちの動きと関係の推移のなかに、この世界の運動のすべてがあるかのようだ。空間とはつまり、相互干渉する多数の仮の項とそれらの諸関係、および関係の推移や変化のことで、そこには始まりも終わりもなく、原因も結果もなく、問題もその解決もない。ただ、そこにある多様な関係とその推移とを、可能な限り繊細に捉えようとする手つきがある。一軒の芸者置屋のなかの小さくしかし多様な力の相互作用が、比喩としてでもアナロジーとしてでもなく、形式的な抽象性として宇宙と同等とも言えるような大きさをもつ(あるいは、世界そのものと同等とも言えるような密度と重みをもつ)。それは、特定の時代や地域の、特定の風俗に出自を持つとしても、それに依存しない(キャラクターや細部がそれ自体として古臭くなったとしても、それらが相互に形作る諸関係の密度はかわらない)。
しかしとはいえ、それを観ている限定された存在である私において(あるいは、その内部にいる人物において)、それがある具体的な、あるいは具象的な(悲嘆、苦痛、諦念といった)感情と結びつくのもまた、避けられないことだとは思う。そこには確かに感情移入としか言いようのない作用があり、それがどの程度(物語や具象性から離れて)抽象的と言えるのかはよく分からない。ぼくがこの映画から受ける感情は、ある程度は(あるいは、かなりの程度で)、没落する芸者置屋とそこに集う人物たちに対する(人間としての)感情であって、物語そのものが下らなければ、あるいはそこに集う人物たちのことがまったく理解できないと感じるなら、空間の抽象的で形式的な密度もまた、まったく異なった感触となってたちあがるだろう。抽象性(形式性、具体性)と具象性(物語性、象徴性)の関係はとても複雑で難しい。
●『流れる』にはつなぎ間違いが一か所あった(田中絹代が鰹節と海苔を買いにゆく商店の場面で、店主が店員のいないはずの逆方向へ振り返って声をかける)。というかこれは、空間の連続性よりも構図を優先したことで結果として空間が歪んでしまった(それを容認した)ということで「間違い」ではないのだろうけど。しかし、基本的に三次元の空間的な秩序に(とても繊細に)忠実になされるモンタージュの流れのなかで、いきなりこういうことがあると、すごくびっくりする。本当に空間に亀裂がはしったみたいな。こういうショックも含めてとても面白い。
●弟夫婦の子供が今朝生まれたという連絡が、病院から戻ったところだという父からあった。