●本棚で吉本隆明の本を探してみたのだが、目当ての『言語にとって美とはなにか』が見つからず、なぜか『心的現象論序説』が二冊みつかった。そういえば、一回目の「組立」の時、佐藤雄一さんとはじめてお会いしたのだが、ぼくの記憶では佐藤さんはその時、この後、吉本の『心的現象論本論』の研究会に行くんだと言っていて、えっ、「本論」が出てるのか、と驚いたのだった。
その後、ジュンク堂で実物を確認して、本当に出てる、すごいな、と思った。思っただけで、買わなかったし、読まなかったけど。
●ぼくが一昨日書いたような「シュルレアリスム」は、いわばオタク的イメージの無制限の繁殖の感触との類似によって遡行的に見出されたもので、厳密に実際のシュルレアリスムに忠実ではないかもしれず、オタク的イメージにあるシュルレアリスム的感触くらいの言い方が妥当かもしれない。
実際、シュルレアリスムといっても、美術だけをみてもその内実は多様であり一様ではない。半ばモダニズム的であり、モダニズムの絵画をベースにして新たな抽象絵画(というか、半抽象、半イメージ的な有機的形象の絵画だけど)の可能性を探るものとしてそれを捉えている人たち、例えばミロやゴーキーがいる。一方、シュルレアリスムをイメージの問題と限定し、フレーム内での(シミュラークル的)イメージのモンタージュとして考える人たち、例えばマグリットやキリコ、ダリがいる(彼らの作品が問題にしているのはイメージとその合成のイラストレーションであり、その作品に対し「絵画としての質」を問うことはほぼ意味がない)。それ以外に、これこそがシュルレアリスムの理念に最も忠実だと思うのだか、抽象とイメージの間、記号とイメージの間、メディウムとイメージの間で、イメージの発生の現場(イメージとイメージ以前の境界)こそを焦点化しようとする人たち、例えばミショーやマッタ、マッソンがいる。二つ目の系列では個々のイメージは固定的で、その固定されたイメージたちがモンタージュ(再編成)されるのだが、三つめの系列は、イメージが固定化されず流動的なままで留められる。しかし、この第三の系列は、「作品」としては最も弱い。シュルレアリスムというのは「作品」という統合的な概念への疑義としてもあった(ぼくは、この第三の系列を進展させて最も「作品」として緊張感の高いものを実現したのがポロックの晩年のブラックボーリングの諸作品ではないかと思う、あるいは別の系列としてサザーランドからベーコンへという流れもあるかも)。
作品とはおそらく一と多との緊張関係として成立する。一が強すぎれば、単調、貧しい、息苦しい、という意味で退屈となり、多が強すぎると、とりとめがない、弛緩した、破綻した、という意味で退屈になる。様々な系列がありながらも、ある程度の弛緩を受け入れてでも「多」の方へ傾倒するという傾向が、シュルレアリスムには共通してあるように思う。
いや、もっと正確に言うならば、積極的に「緩み」を生み出し、その緩みのなかに「何かが宿る」という感じなのだと思う。それは本当に、儚く捕えがたいくらい弱いのだが、そこにこそ何かがあらわれるのだというような。「緩み」というのは、「一」から「多」へと移行するその中間地点であり、おそらく、それとは逆向きの、「多」から「一」へと移行する中間には「緊張」があり、モダニズムの絵画はその緊張の場所で何かを掴もう(孕もう)としたのではないか。ポロックは、47年から50年には後者であったが、ブラックボーリングの作品において前者へと反転したのではないか(そもそも前者的な資質が強い人が、無理矢理後者を目指したところに、ポロックの作品の特異性があるのではないか。)。
●多であることがそのまま一である(例えばジャッドのような)。多数のレイヤー、多数の焦点が、平板な平面に統合される(ポロックのような)。フォーマリズム的な語彙では、造形を超える、造形に反する、と言われることの内実はそのようなものだろう。そこには、多数の運動や空間が折りたたまれながらも、それらが潜在性という次元に留まることによって「一」であり得ている(だからポロックの成功した作品はざわざわしつつもおだやかであり、「迫力がある」ように見える作品は基本的に失敗していると、ぼくは思う)。それは、多数の運動や空間が折りたたまれつつも、静止状態にある、つまり、感覚はざわざわと揺さぶられるが、動き(図)は顕在化しない。
そのような潜在的な冷凍状態を解凍し、動きや空間を顕在化させるのは、それを観る者それぞれの眼差しであり、身体であろう。観者が身体と動きをもつ存在である限り、潜在性の次元で持ち堪えることは出来ず、解凍=顕在化は不可避だろう。そしてこの、眼差しによる解凍(顕在化)作業は、作品の形式の外側で、それぞれの観者の身体において、あらたな構築やモンタージュを伴って行われる。つまりそれは、形式主義的にはとりあつかえない(身体が偶発性を不可避的に孕むものだから)。でも、そのことによって作品が息づくということでもある。このような作品=潜在性の解凍(顕在化)が、それを描いた本人であるポロック自身にも訪れたことによって、ブラックボーリングの作品への移行が起こったのではないか。