●水田の苗が植えられた頃の二倍くらいの大きさになっていた。
●あきらかに迷惑メールなのだが、タイトルが「この先生きのこ」となっているメールがあって、気になって開いてみたら、「この先生きのこるにはどうしたらいいか」というつまらないタイトルが途中までで省略されたものだった。
シュルレアリスムというのは基本的に特定のメディウムに帰着しない運動だと思う。故に、「作品」として残されているものの多くは「作品」としてはとても弱かったり未熟だったりする。一種の素人芸のような感じ(ここで「素人芸」という言葉は必ずしも否定的に使っているのではない)。少なくとも美術においては。しかし、シュルレアリスムの可能性は「特定のメディウム」には決して最適化されないそういうところにあるのではないか。いわゆるモダニズムの美術が、メディウム自己実現というか、メディウムスペシフィックという傾向を強く持っているのに対して、シュルレアリスムメディウムメディウムの間とか隙間で起きた出来事なのではないか。シュルレアリスムは、知的なサロンのなかで起きた一種の熱病のようなもので、人と人の間で感染し増殖的に発展するようなもので、そういうものとしておもしろいのではないか。作品という結節点そのものよりも、それらを複数つないだ時にその隙間から見えてくるものの方がおもしろい、というのか。例えばジャコメッティのような「作品としての独自の質」を追求する人は、その起点としてシュルレアリスムという熱病(の感染)があったとしても、その後そこから離れ、アトリエに引きこもる必要があった。
エルンストは、シュルレアリスムの画家としては珍しく、画家としてちゃんとしている。その絵は、「絵」として観ることのできる質をもっている。しかしだからこそ、絵はそんなにおもしろくはないかなあと、横浜美術館の展示を観て感じてしまった(タブローじゃない方が面白い)。例えば、ミロやゴーキーであれば、シュルレアリスム的な技法や形態を利用しつつ、モダニズム絵画としての新しい形式性と質を創造したといえる。ジャコメッティは、モダニズム的な形式とも違う、ジャコメッティ的としか言いようのない独自の質をつくりだした。それらに対しエルンストの作品の「絵としての質」はきわめてオーソドックスなものにとどまっているように思えた。確かに、それまでにない新奇なイメージや形態、触感などが作品に持ち込まれてはいるが、それらを配置して絵画を成立させている規定的な空間、あるいは座標は、実は伝統的な風景画とそんなにかわらないように思われた。絵として単調にならないように、どの細部や形態やテクスチャーを際だたせ、どれを(ぼやかしたりして)後退させるのかという明滅の配置のバランスや明暗の使い方など、画面の見せ方は、コンスタブルなどの風景画とそんなに変わらないのではないか、みたいに思ってしまった。上手いがゆえに中途半端に保守的に見えるというのか。正直、常設展に展示されていたクールベの風景画の方が絵として現代的であるように見えてしまった。
横浜美術館では、常設でデルヴォーが一点展示してあった。デルヴォーは一見イラストっぽく見えるかもしれないけど、独自の光の感触がある。時間の終わりの方から射してくるかのような、画面に遍在する青灰色の光。ここで光というのは、レンブラントライトとか印象派とかみたいな、「光を追う(光を表象する)」というようなことではない。色と色との配置、関係、相互作用によって見えてくるもので、絵画に特有の「光源のない光」のことだ。マティスから感じられる光、モンドリアンから感じられる光、というような。
光というと誤解されがちなので、調子(トーン)と言った方がいいのかもしれない。ただ調子というと、画面全体の統一感を出すために「調子を合わせる」みたいな消極的なニュアンスになってしまう感じもある。ここで調子(トーン)は、「合わせる」ものではなく、色と色との関係によって「生み出される」(積極的につくりだされる、あるいは、結果として生み出される)ものだ。響き、と言うのがいいのだろうか。色と色との響きが、たんに色の組み合わせというレベルではなく、ある複雑性のしきい値を越えて固有の質となる時、それが「光」として(ぼくには)感じられる。
デルヴォーの左側にはマグリットが、右側にはダリが展示されていたが、彼らの作品からは「光」はまったく感じられない。彼らの絵には(積極的な意味での)「調子(トーン)」がない。もちろん、彼らの作品にはそれとは「別のもの」があるわけで、だから駄目だということではない。ただ、「似たような作品(同傾向の作品)」として分類されていたとしても、その作品の内実は作家ごとにまったく違うのだ、ということが言いたかった。
●サザランド(サザーランド)の絵が左右にあって、その中央に、まるでそれらを従えるようにどーんとベーコンの絵があった。だがぼくは、サザランドの方が好きだ。確かに、ベーコンは見せ方がうまくて、すっきりと分かりやすい。でも、それ、分かりやすすぎるだろ、と、どうしても感じてしまう。ベーコンは、キャラとしてはいっちゃってる天才みたいなイメージだけど、作品を観ると、そつなくうまくまとめてる感が見えてしまって(思い切りがよくて見切りが早い、ということなのかもしれないが)、それが悪いとは言わないけど、どうしてもちょっとしらけてしまうところもある。サザランドの方が少し不器用で、もたもた感があるのだが、その分味わい深い。気持ち悪さもじわじわくる感じ。サザランドの絵は、親しさと気持ち悪さの配合具合がとても気持ち悪い。
●23日に観た横浜美術館の展示は、全体として充実していた。
●今日の机の上。ポストカードをパラパラ見ていて、向かって右にあるクールベの絵と、左にあるロスコの絵に、なにかしら共鳴するものがあるような気がしたので並べてみた。並べると、クールベの方が断然強いな、と思ってしまう。とはいえ、必ずしも強いばかりが良いわけではない。