●銀座のMEGUMI OGITA GALLERYでの硨島伸彦展について。
●細部まで詳細に描写すればリアルになるわけではないし、形態を正確に再現すればリアルになるわけではない。その形態が人間に対してどのように働きかけるのか、あるいはその形態と人の脳との共鳴の間に何が生まれるのかが重要であろう。硨島伸彦が抽出する形態は、粒子の粗い写真をさらに拡大コピーしたかのような表情をもつ。いわば「形態そのもの」としては解像度が低く、強くエッジが立っているわけではない。しかし、そのような形態こそが、空間と動きを豊かに内包している。
●しかしこれは、不明瞭な像がかえって人の想像力を刺激するという類のこととは違う。たとえば、像の対象がぼやけ、不明瞭で決定できないことの不安が恐怖を導き、その恐怖によって幽霊の存在にリアリティが付与されるというようなことではない。逆に、形態そのものに豊かな空間と動きの気配を含ませるために、解像度が低い「かのように見える」形態が厳密に選ばれている。
「解像度が低い」という言い方は、その形態をあくまで写真的な像として見た場合のことだ。実際の作品を観ると、絵の具と絵の具の関係、絵の具と地となる布との関係(絵の具の層がどの程度布の肌理を隠し、どの程度生かすかの加減)、図としての形態がその背景から立ち上がる切れ味などが、高度に調整されており、その精度はきわめて鋭い。言い換えれば、解像度の低い形態が極めて鋭いエッジによって立ち上がっているという感じになっている。
●さらに言えば色彩がとても抑制的に操作されている。解像度が低い(っぽく見える)形態が選ばれ、だがそのエッジが絵の具によって切れ切れに鋭く立っていて、そして全体として色彩が繊細で穏やかに抑制されている。豊かさと鋭さと鷹揚さとが絶妙なバランスで解け合っている状態が、最終的にとても「シンプルに見える」ように調整され、示されている。シンプルであるとは単純であることとは違っていて、複雑な要素の絶妙なバランスによって「シンプルさ」が実現されている。
●形態は(一色でベタ塗りされているということもあるのだろうが)、ある「瞬間」という感触を強く惹起させる。しかし同時に、そこに示された瞬間は、その瞬間の次に起動されるであろう動き、そしてその動きを可能にし、あるいは導くような空間の潜在性を、強く帯びたものでもある。その形態は、一瞬を鋭く切り取ったものというより、ある一瞬から前後へと時間と空間とが滲み出してくるようなものとしてある。そこから時間と空間が生み出されるような何かとして、形態があり、色彩があり、画面があるように感じられる。
●ここに、作品のモチーフとして動物が多く用いられる理由があるのではないか。動物の身体は、その動物が行う動きと、その動きを導く(要請する)彼らの住む環境空間のよりダイレクトな表現となっている。動物の形態はそれ自体で動きの「ある傾向」と「その傾向を要請する環境」を表現している。人体は、おそらく動物よりも動き得る動きのバリエーションが多様で、だからこそ、人体そのものによって「ある動きの潜在性」をシンプルに表現することが難しい。ある特定の仕草やポーズによってそれを示すことは多くの画家や彫刻家がやってきたことだが、しかし仕草やポーズには特定の意味や物語や文脈が不可避に入り込む。人体は余計なものを重たくまとい過ぎている。
それに人間の動きは今まであまりにも多く描かれてきすぎた。それとは違った動き、違った空間、違った表情のバリエーションが動物によって可能になる。カフカが動物を主軸にテキストを展開するように。
●「そこ」から、時間の前後が滲み出てくる何かとしての形態。それは、時間の原因であり、空間の原因であり、動きの原因でもあるようなものだが、それ自体は決して時間や空間にならない潜在性ともいえる。だとすれば、画面そのものは、時間の不在であり空間の不在であり動きの不在であり、つまり世界の不在であるようなものとしてある、とも言える。そこからすべては生じるのだが、そこには何もない。世界から零れ落ち、世界を裏から支える「虚」の場のようなもの。ぼくはこの展覧会の作品を観ながら、「永遠に世界の外にありつづける虚としての瞬間」という言葉が思い浮かんだ。このような「虚」の感触の前景化は、色彩の絶妙な選択の効果が大きいように思う。
●ウサギは、何処かからそこへと向かって動いてゆく、同時に、そこからどこかへと動いて行った。ウサギは既にそこにはいないし、未だそこには至っていない。「そこ」には、「ウサギはここにはいない」という事柄のみが記録されていて、しかしその「ウサギはここにはいない」のなかに、ウサギの形態と、動きと、その動きが動かれた空間が圧縮されて書きこまれている。
●一方に平面的な虚のウサギがいて、もう一方に立体的な虚のウサギがいる。立体的なウサギが「実」というわけではない。立体もまた、空間の内側に折りこまれて落ち窪んだような、触れようとしても触れられない像であるようだ。それはどちらも虚であり、気配であり、運動を内包する静止であろう。ウサギや、ウサギの動き、ウサギの動く空間は、この二つの虚のウサギのどちらにあるのでもなく、しかしこの二つの虚のウサギの関係のなかに居て、その見えない異次元空間のなか動き回っているかのようだ。ウサギが動き回っている限り、我々はウサギを見ること、捉えることができない。我々は、ウサギの不在を示すものである「虚のウサギの形態」によって、ようやくなんとかウサギの動きとその動く空間の気配を感じることができる。しかし気配は実体よりも濃いかもしれない。
●動き回っていたウサギは、自分の名前が呼ばれたような気がしたのか動きを止め、木陰からふっと姿を見せる。しかしそれはほんの一瞬のことで、ウサギの登場に不意を付かれたわたしが本当にウサギを見たのだろうかと確かめようとそちらに視線をやる時には既に動き出していて、見えなくなっている。その一瞬、木陰からふっと姿を見せる仕草が、それが起こった空間とまるごとになって、「虚のウサギ」として画面に捉えられている。ウサギは既に(未だ)いないが、ウサギの存在、ウサギの動き、ウサギの動きによってひらかれる空間(未満)の気配がそこ残る。
デュシャンは書く。「(たった今人の立ち去っていった)席の暖かさはアンフラマンスである」。その時、人は、席に「いる」かつ「いない」。「たった今人が立ち去った」という極薄の出来事は、時間の外にあるが、無時間でも、時間が凍結されているわけでもなく、そこから(アブダクション的な効果によって?)時間が立ち上がり、動きはじめる。
●今日の机の上。




●『解明 M・セールの世界』を読んでいると、『虚構の近代』に書かれていることのいくつかがほぼそのまま、セールの口から出たセールの発言であることに驚く。つまりラトゥールはそれくらいセールから大きな影響を受けているということなのだろう。しかし、この本が出たのが92年で、『虚構の近代』が91年に出ているのだから、ここで時間の逆流が起こっていることになる。まあ、実際にはほぼ同時期に出た本と言えるのだろう。ラトゥールは、このセールとの対話と平行して、そこから直接的に多大な影響を受けつつ『虚構の近代』を書いていたということなのだろう。
以下に引用するセールの発言、かっこ良すぎる。
哲学史や証明、それに一般的には知についても、わたしは最近までこのように言ってきました。これは、養育のための、学校のための、教育のためのものだというふうに。
しかし学校の目的は、学校をやめることなのです。ある年齢になったら学校は卒業するほうがいい。農業学校で仕事を学んだ後には、自分で農夫になるべきです。養成が終わると、成人の年齢になります。教育の目的や目標は発明なのです。》
《子供たちや若者たちだけが、他人によく見られようとして、自分がこんな人だとかあんな人だとかいうことに、たいへん、夢中になって、猛烈に、心をくだくのです。これは基本的な人間形成のためでもあります。大人はどうかといえば、なにかをつくろうとせっせと働いて、自分がどんな人であるかということにはまったく頓着しないものです。》
●近代と前近代との切断などなかった。認識論的断絶もコペルニクス的転回もパラダイムの転換もない。我々は(我々自身、そして我々の社会は)たんに、最新層から最古層までの無数の層が互いにズレての折り重なっているのであり、それぞれの層の連続性と不連続性もまた、層をなして重なっているだけだ。これはラトゥールの主張の基本だが、これもまた大きくセールに依っているようだ。まず、ラトゥールからセールへの(あらかじめ反論を期待した)質問。
《わたしたちは、決定的で決め手となる革命が、完全に根底からのコペルニクス的転回が何度かあったと思っています。科学においては、バシュラールとその一派が言うところの認識論的断絶がそれに当たります。(…)これらの革命によって、われわれは過去と活発につながりを持つことを妨げられています。それは、過去が決定的に取り消されてしまっているからです。》
《われわれを近代人に仕立て上げた諸革命が、まさに過去のこのような諸状態を計り知れないものにしてしまったからなのです。それゆえに、自分たちはカルタゴ人とはまったく違う、とわたしたちは思っているのです。》
●それに対するセールの応え。「革命」こそが飽くことなく繰り返された「古くさい」概念なのだ、と。
《問題なのは古いしきたりであり、真に西洋的なわたしたちの思考方法なのだということがおわかりですか。この思考方法が、あなたが言うように、時間をいくつもの革命によって切断しているのです。わたしたちは古代文明を備えた文明のなかで、生き、思考しているわけですが(…)。ある瞬間にすべてが停止します。するとわれわれはまたゼロから数え直しますよね、前の部分はご破産にして。》
《おなじ図式が科学にも当てはまります。科学の先史時代、つまり科学が存在していなかった時期というのは、いまでは埋もれてしまっているアルカイスムのように、科学が突然出現した時期に先行しているわけです。なんと多くの哲学者が、このような効果を利用していることでしょう? ギリシア人以前はだれひとりとして考えもしなかったが、ついにギリシアの奇跡が起こり、すべてが、発明された……、科学も、哲学も、というふうに……》。
《西洋思想は、その始まり以来、まるで無意識的反射のようにそれを繰り返し続けてきたのではないか、と思えてしまうほどです。少なくとも、最初の祖先たちが楽園を追われて以来は。彼らはゼロから出発し直さねばならず……、それからメシアが誕生して……、近代人になるためのこのようなやり方は、繰り返されてきたわれわれの慣習、古くさいとまで言いたいのですが、そういう慣習をまさしく定義しているのです。『純粋理性批判』のかの有名な序文では、各々の科学について、すべての事柄が一新され、その過去のなかに一種の古さが捨て去られる瞬間が示されています。近代人になるにはこのような動作を繰り返すことが必要なのだったら、これほど旧式なことはありませんよ。》
●これらの発言へのラトゥールによる「受け」。これはほとんど自己言及のようだ。
《わたしは、あなたがやっている諸科学の人類学が、まさにこの問題を解決してくれるように思っているのです。セールさんにとって近代人であるとは、カントの純化作用を繰り返さないことを意味しています。したがってそれは、わたしが言っている意味での近代人ではけっしてなかったということを、過去を永遠に消滅させ、われわれを完全に離れたところへ導くようなコペルニクス的転回をおこなったことは一度なかったということを、意味しているわけです。》