●『一万年、後‥‥。』(沖島勲)をDVDで。すっごく不思議なのだが、この映画のどの細部、どのネタを取り出してみても、それら一つ一つはまったくおもしろいとは思えないのに、作品全体としては、非常に強くある感覚が惹起される。実際、観始めて十分くらいか二十分くらいか、「コヤズミ」がどうしたとかいう会話がなされるところで既にうんざりして、「もういいや、これ」とDVDの再生を止めようかと思ったのだが、なんとなくそのままずるずる観続けてしまった。「もういいや」という感じで観るようになると、この映画のペースにだんだんのっかることができるようになった。
●おそらく、「銀河鉄道の夜」の銀河鉄道車両内のような時空をつくり出すことこそが重要で、そこで「何が起きているのか」はあまり重要ではないのではないか。あるいは、スピルバーグの『A.I』のラストで主人公の少年ロボットが母親と過ごす幻の一日のような時空。そこから懐かしさが生まれてくるノスタルジーの始点でありながら、三次元+時間という時空のなかでは「ここ」として指定することができない場所。それが、「一万年後の過去」という形で造形されている。気が遠くなるほど先(つまり「遠く」)の方にある、懐かしさの始点。親しいと同時によそよそしく、既知であると同時に未知であり、始まりであると同時に終わりであるような地点。ゼメキスの『コンタクト』で主人公が宇宙の果てのような場所で自分の過去を見いだす感じにも近いかもしれない。
●舞台は、高度成長期前、おそらく戦後すぐくらいの感じの住宅風の部屋。だがそこへ帰ってくる中学生くらいの男の子は、戦後すぐの子供とは思えない、ふつうに今っぽい感じ。この二者の関係によって、この映画の舞台がある特定の時代や場所を再現するものではなく、「仮のイメージ」として置かれたものであることがわかる(このことは、後にこの部屋が「一万年後」であるとされることによって、強化される)。ここは、どこでもないどこかとしての「ここ」だし、少年は誰でもない誰かとしての「少年」であろう。イメージが仮に置かれたものであるということは、イメージが現実的な根拠とのつながり(現実的な事物同士の関係の網の目、文脈)においてあるのではなく、純粋にテクスチャーとしてあるということだ。だが、「仮」である(それがそれでなければならない「説明的」根拠がない)からこそいっそう、他ではなくて「それ」でなければならないという必然性を強く帯びる。
逆説的でわかりづらい言い方かもしれないが、もし、「高度成長前の住宅を再現する」ことが目的であれば、その目的を満たす別のイメージも他にいくつかあり得ることになる。つまりそれは、いくつかあり得るイメージたちのなかで最良であるとして選択されたもの、ということになる(却下された別のイメージとの交換可能性がある)。だが、そのような根拠や目的なしにいきなり「あるイメージ」が提示される時、それと交換可能なイメージは他に無限にあることになり、だからそれは無限の中でたまたまそうであった任意の項でしかないのだが、だからこそ同時に、無限の中から(偶発的にとはいえ)唯一選ばれたという意味での強い特別性もまた帯びることになる。
(作家である沖島勲らとっては「たまたま」などではなく自身の生涯のなかで取り替え不可能なイメージなのだろうが、それを観る観客一人一人は沖島本人ではないので、それはあくまで任意の項として与えられる。)
●先に、この映画を構成する細部やネタはどれ一つおもしろいと思えないと書いたが、この映画で唯一、実質的な密度のある細部が、この部屋の空間の作り込みであろう。しかし、「ここ」が一万年後の世界というのであれば、この空間はまったく抽象的、幾何学的なものであっても(ただ設定を説明するだけならば)何の問題もない。にもかかわらず、この空間は(この空間だけは)非常にこだわって造形されている。その理由は、作家である沖島勲のこだわりだととりあえずは言える。しかしそれは、個人としての沖島の記憶の問題であり、沖島にとっての必然性であり、「この作品」の必然性とは別だ。沖島個人を知らず、特に思い入れもない者にとって、この細部の選択(充実)は任意のものということになる。つまり、いきなり理由もなく提示される。いきなり昭和二十年代風であり、いきなり一万年後であり、最初から梯子がはずされた宙空に、観客は位置することになる。
●いきなり昭和二十年代風であり、たまたま昭和二十年代風であり、無根拠に昭和二十年代風である。だからこそそれは、有無を言わせず、検討の余地なく、絶対的に、交換不可能な形で「それ」でなければならないのだ。これが細部の具体性がもつ偶発的な絶対性だろう。しかし、この絶対性、この交換不可能性は、それ自体としては「交換可能」である、のではないか。沖島にとっては絶対的に昭和二十年代風でなければならないのと同様、自分にとっては絶対的に昭和四十年代風でなければならず、他の誰かにとってはゼロ年代風でなければならないかもしれない「何か」である、という風に。ある細部、あるテクスチャーの具体性は交換不可能であるが、その「交換不可能性」は交換可能である。
●わたしにとって絶対的な「これ」とあなたにとって絶対的な「あれ」を交換することはできないが、その交換不可能性は、あなたにとって絶対的な「これ」と別の誰かにとって絶対的な「あれ」が交換できないことの交換不可能性と「交換し得る」、のではないか。
(念のために書くが、これは、「わかりあえやしないってことだけを、わかりあうのさ」ということとは全然違う。)
●交換不可能なものが交換不可能なのは、それが特別な、際立ったものだからではない。それは、具体的でかつ根拠がない(つまり偶発的である)からこそ、「唯一性」と「無限への開かれ」が同じ強さで同居し、「交換レート」が作動しなくなるから交換不可能なのだ。根拠や目的があれば、「これ」はそこへと至る複数の道のうちの「一つ」となり、他の道との交換が可能になる(優/劣、適当/不適当の違いはあっても)。だが根拠がない場合は交換候補が無限にまで増殖してしまい、それによって偶発的でしかなかった「これ」という選択が絶対化する。だから「これ」の中味の問題ではなく「これ」が「際立った」ものである必要はなくなる。
●「具体的細部の交換不可能な絶対性」の交換可能性。多数の交換不可能性たちが、互いに響き合いながらの交換されるための、すかすかな隙間。細部がすかすかとも言えるこの映画を観ている時に感じている不思議に強い感覚的な力とはこの感触なのではないだろうか。交換不可能性それ自体の交感によって、少年とおじさんは、他人であると同時に同一人物でもある。
「交換不可能なもの」が、それでも交換されるというのではなく、交換不可能であることの「交換不可能性」それ自体が、様々な形で連鎖し、交錯し、交換されてゆくことで開かれる、空間があり時間がある。そこにあるのは(偶発的であるからこそ絶対的な)具体性によってはじめて可能になる抽象性の交換のネットワークとでも言うべきものではないか(一万年という時間は、交換不可能性の交換が、宇宙的に大きな広がりをもつことを示すのではないか)。宇宙とはそのようにしてあるのではないか。この映画はそのことを示しているように思われる。そしてそれはやはり、死や神を強く意識に浮上させる。
●今日のドローイング。