●デイヴィッド・ドイッチュという物理学者(「量子計算理論のパイオニア」であるらしい)の『世界の究極理論は存在するか』(原題は「THE FABRIC OF REALITY」)という本を読んでいる。まだ読み始めたばかり(4章まで)だけど、この人の「科学」に対する考えが面白かったのでちょっとメモしておく。
●ドイッチュによると、科学が、「観測をもとに一般化が行われ、それをさらなる観測が正当化する」という帰納的な過程であるとするのは間違いであるそうだ。科学はあくまで、問題に対する「説明」の体系であり、観測の蓄積によってではなく、問題(問題の解決)によって導かれるとする。それは一言で言うと次のようになる。
《説明はそれを導き出した手段によって正当化されるのではなく、その取り組んでいる問題を解く能力がライバル説明にくらべて卓越していることによって正当化される。》
●「説明」のもつ「問題を解く能力」こそが重要である、と。ここで卓越した説明とは、より包括的で(出来るだけ広い範囲に適応可能であり)、よりシンプルであるような説明(複雑な事柄を出来るだけシンプルな原理で説明出来る)であるとされる。だから、それが「卓越した説明」であれば、その根拠を問われる必要はないとまで言う。まあこれは、いわゆる「神学論争」を排除するということもあるのかもしれないけど。
《「単なる」説明を、それらがいかなる究極的な説明によっても根拠づけられていないという理由で退けることは、不可避的に人々を、究極的な根拠づけの源泉を目指す無益な探究に駆り立てる。そのような源泉は存在しないのだ。》
だから、「理論」における「固有の信頼度」ヒエラルキー、数学的>科学的>哲学的、も否定する。
《(…)純粋な数学的議論でさえ、その信頼性を支えているのは物理的および哲学的な理論に由来しており、したがって、結局、絶対的な確実性を生み出せないことを(10章で)示すつもりだ。》
●理論が「説明として適切であるか」によって測られるとすると、われわれが持っている「科学には再帰性が必要とされる」という思いこみすらも、絶対ではないということになる。例えば、道を歩いていて突然肩に痛みを感じたとする。この原因が、精神的なものなのか、身体内部に起因するものなのか、外部からの影響によるものなのか分からないとする。しかしその時、足元に空気銃の弾が落ちていたなら、その原因は「物陰にかくれたいたずら者」であると考えてほぼ間違いないだろう、と。
《このような人物の存在は明らかに、観測された証拠から論理的に帰結されたものではない(この証拠は、たまたまたったひとつの観測からなっているのだ)。その理論は、たとえば、あなたが同じ実験を行ったときに同じことを観測するというような、「帰納的一般化」のかたちをもたない。また、実験的にテスト可能でもない。隠れたいたずら者が存在しないことは実験では決して証明できない。こうしたことにもかかわらず、もしそれが最良の説明であれば、理論を支持する議論には圧倒的に説得力がある。》、
●これはパースのアブダクションに近い感じだけど(この「隠れたいたずら者」にはあきらかに「影の宇宙」という意味も込められているだろう)、だから科学(あるいは理論)とは、時代とともに常に変化する「受け入れ可能な」最も優れた説明のことであり、それは要するに「説得力」の問題で、そこに絶対の根拠などを見出すことはできない(必要もない)ということになる。そこでは「説明」だけでなく、何を「最も優れた説明」とすべきかという「基準」そのものもまでが常に変化する。
《説明が変化しているだけでなく、何を説明と見なすべきかに関するわれわれの基準と考え方もまた徐々に変化(改善)している。だから、受け入れ可能な説明様式のリストはいつでも変更可能であり、その結果、受け入れ可能な実在の基準のリストもまた変更可能である。》
●これは一見、とても過激な相対論のようにみえる。しかしここには、「説得力」による淘汰がある。例えば、「説得力がある」というのは次のようなことだ。
《「惑星はあたかも天使に押し動かされているかのように動く、したがって天使は存在する」と結論できるだろうか。それはできない。しかし、それはただ、われわれがよりよい説明をもっているからである。惑星運動の天使説もまったく価値がないわけではない。(…)だが、この説は、なぜ天使が別の軌道ではなくこの一組の軌道にそって惑星を押し動かすのか、あるいはもっと具体的に言えば、なぜ天使は、あたかも一般相対性理論が詳細に述べている、時間と空間の湾曲によって運動が決定されているかのように、惑星を押し動かすのか、を説明しない。天使説が、説明として現代物理学と張り合えないのはこのためである。》
●だから「説得力」は、「理論」そのもののなかに含まれない。例えば、天体はプラネタリウムのような構造であるという主張を、理論的に完全に否定することは出来ない。そのような主張の上に、現在観測可能な事実すべてを矛盾なく配置することも不可能ではないから。だから、純粋に理論的な次元では、それは一般相対性理論と同値である。しかしそのような説明は、現代の観測技術における観測結果をみるとき、細部のつじつま合わせが異様に複雑で面倒なことになる。それに比べれば、一般相対性理論を使った方がはるかに、天体の運動に関するあらゆる(複雑な)観測結果をシンプルにすっきりと説明できる。ここではシンプルさこそが説得力である。そしてドイッチュは、このように「シンプル」であることを「実在的」と言う。
《われわれはより複雑な説明よりも、より簡単な説明の方を選ぶ。そして、現象の単純な側面にしか触れられない説明よりも、細部と複雑性に触れることのできる説明の方を選ぶ。》
《もっとも単純な説明にしたがったときに、ある実体が複雑で自律的であるならば、その実体は実在的である。》
●しかし、実在的なものはシンプルであるというのもまた、一つの信仰なのでないかと、気弱にぼそっと呟いてみる。
●ドイッチュは、一見相対論的にみえて、厳しく排他的である。それは彼においてはポパー的な論理が絶対的に支配しているからだ(「科学者」なら当然のことなのかもしれないけど)。あらゆる理論は仮の説明であり、どの説明が最も適切であるか(説得力をもつか)という基準もまた、時代によって流動的である。しかしそれでも、それぞれの時代で唯一の「最も優れた説明」が存在する(それは、「反証可能性」に開かれたライバル説明との闘争とそれを審査する専門家集団の厳しい目によって明らかにされる)、というのだから。そしてその「最も優れた説明」は、未来に向かって確実に進歩しているとされる。
●これもやっぱり「唯一」じゃなきゃいけないのかなあ、と、「唯一」であるっていうのも信仰じゃないのかなあ、と、またぼそっと、さらに気弱に呟いてみる。真理(あるいは実在)の「闘争的(排他的)」側面というのは、やはりどうしても出てこざるを得ないものなのだろうか。
●たとえば、「説得力の基準」が一つではないとは考えられないだろうか。あるいは、「唯一」であるということが「最も包括的である」ということと同値なのであれば、それぞれ違った側面からの「もっとも包括的な説明」が複数共存することはないのだろうか。
●科学というのは、圧倒的に「結果を出している(あるいは、汎用性がある)」という強さがあるんだよなあ、と思う。しかしこの「結果を出す」というのはどういうことなのだろうか、とも思う。
●しかし、そのように主張し、そのような道筋で考える人が、無限にある平行宇宙が弱い相互作用だけをしつつ並立的に存在しているという、多宇宙論という結論に行き着くというのが面白い。それぞれにほんの僅かだけ異なる「無限」の宇宙の並立こそが、「唯一」の最も優れた説明である、と、ドイッチュは主張しているようなのだ(最後まで読んでいないからまだ詳細は不明だが)。この捻じれというのは何なのだろうかと思う。この不思議こそがぼくにとってはリアル(実在)だと感じられるのだけど。