●「サイエンスゼロ」、今週は重力波の話だった。ニュートンの重力(万有引力)からアインシュタインの重力(時空の歪み)への重力概念の変化。そして、エネルギーによる時空の歪み(=重力)が「波」として伝わるということが、アインシュタイン方程式から導かれる(だから「重力波」は検出されるはずだ)ということを、実際に式を解説しながら示すという前半を観ていて、今回は、久しぶりに技術系ではなく、純粋に物理系の話なのだなあと思った。
しかし、後半は、きわめて微弱であるはずの重力波を捉えるための巨大な観測装置の建設の話になって、いわば工学的というか技術的な話になった。つまり、重力波という「物理理論」上の重要な部分を検証するためには、非常に精巧な観測装置が必要で、ようやくそれが可能と思われる装置が技術的にできるようになった、という話だった。そして、当然だけど、そのような装置が何故「観測装置」として有効なのかを保証するのは、検証される物理理論もその一部であるところの、物理学の理論体系の整合性であるはずだ。
理論は観測装置によって正当化されるが、観測装置の「装置」としての正当性は、理論体系によって正当化される。
ぼくが何を言いたいのかと言うと、ある「理論」によって導かれた重要な帰結を検証するためには(その検証は当然、その「理論」の正当性に深く関わる)、それ以外の様々な、そしてきわめて精密に整合し合う物理的理論(体系)と、その理論の応用によってつくられ、そしてそれぞれが極めて精密に組み合わせられ調整された、様々な技術(体系)が必要であるのだなあ、ということだ。
ここには本当にくらくらするような、とんでもなく巨大で精密な、理論(形式)と技術(道具)との共犯関係があるのだなあ、と感じた。数式化された物理法則(形式)を利用する――というか、根拠とする――ことで観測装置(道具)が造られ、その道具(装置)の新たな組み合わせによってつくられる別の道具(装置)が、新たな別の形式(理論)の検証のための観測装置となる(ここで、道具—装置の新たな組み合わせも、形式—理論によって導かれ、支えられる)。形式(理論)と道具(観測装置)とは、縦糸と横糸のように互いにクロスしながら、それぞれ独立しつつも、互いに相手方を支える基底となっている。
形式と道具とはある意味で相容れないものだが、形式がなければ道具を組み立てるための原理がなくなり、道具がなければ形式と現実との通路がなくなるという意味で交叉し支え合っている。物理学は、そこががっつり噛みあっているから、こんなにも(恐怖を感じないではいられないほどに)成功しているのだろうと感じた。
(これは批判や嫌味ということではまったくないのだけど、科学の進歩は「わくわくする」というようなことをよく素朴に言うけど、これだけのことが分かってしまうこと・出来てしまうことに対する「恐怖」というのを、物理学者の人たちは持つことはないのだろうか。本当は、けっこうヤバいと思っているのだけど、悪魔のような好奇心の誘惑に負けてしまう、みたいなことなのではないだろうか。)
こういうのを観ていると、人間が人間の知性を超えた人工知能をつくってしまうということも、十分にあり得ることだと思えてくる。