●サイコロは六つの目をもつ。つまり「6」の異なる可能性=情報量をもつ。だがサイコロを振ると目が確定し、それ以外の可能性は消え、情報量は廃棄される(ここで「情報量」とは日常語と意味が異なり、可能性の量のことをいう)。その時に廃棄されたた情報量がエントロピーである。『量子力学は世界を記述できるか』の二章で佐藤文隆はそのように書く。
例えば、コンピュータがある計算をすることで答えが導かれ、複数あった可能性が一つに絞られる。その計算によってコンピュータに生じた「発熱」もまた遺棄された情報量(可能性)であり、つまりエントロピーであるとも書かれる。
ここでは、意味(1から6まであった可能性が例えば「3」に確定し、残りの可能性が消える)と、物理的現象(発熱)とが共にエントロピーとして同列に扱われている。「熱力学」は情報理論だという著者の主張がここにあらわれている。
(ここで情報と熱とはマックスウェルのデーモン、ジラードのデーモンと呼ばれる思考実験によって結びつけられている。)
そもそもエントロピーは熱力学の第二法則にかかわり、時間の不可逆性にかかわる(エントロピーが常に増加しつづけることによって時間は逆方向には進まない)。ミクロの分子レベルでは時間は可逆的なのに、マクロのレベルになると何故か不可逆になる。なぜそうなのかは分かっていない。熱力学の第二法則はその根拠とも一応言えるが、ミクロとマクロの矛盾を矛盾のままで放置するための一種の方便とも言える。著者は第二法則について≪多データを粗っぽくまるめるためのある種の統計法則であるようにみえる≫と書く。つまり、エントロピーという概念を想定しておけば計算上はうまくゆくということだろう。だがそれは、科学的な還元主義にはなじまず、物理法則であるのか道具的に有用な変換法則であるのか、地位が曖昧だということだろう。
≪法則が実在に自在するものか? それとも行為する観測者あるいは記述者側の問いかけの手法なのか? 長い間、この問題は哲学の対抗軸である。≫そういえばドイッチュの本では後者への論破が一章を費やして展開されていた。それはともかく…。≪科学では神や実在はイデオロギー≫であるが、同時に≪研究に駆り立てるエネルギー源≫でもある。よって、≪試行錯誤の現場ではイデオロギー狩りはすべきではないし、またできっこない≫。しかし、≪ここで問題なのは社会に支えられた制度としての科学というものは、そういう人間の様々な本能丸出しの営みなのか、公共性をもった節度のある営みなのか≫というメタ理論である、と著者は書く。よって、イデオロギーの如何にかかわらず(神や実在への傾倒があることそのものは否定できないとしても)、公共的な価値としての科学はあくまで≪自然をマニュピュレートする知識≫という位置に(つまり、神や実在や真実を語るもの---世界観あるいは神学---ではないという実践的な位置に)節度を保って留まるように自重するべきだとする。≪熱力学という学問はエンジンをマニュピュレートする知識としてスタートした≫。
●ここで、「公共性」というのもイデオロギーの一つではないかと突っ込むことも可能だが、この突っ込みには有用的な意義はない。
●そこで、完全に意味論的(主観的)なものでもなく、完全に物理的(客観的)なものでもない折衷的なもの(情報理論)として、エントロピーを(そして、熱力学+量子力学の半分を)考えるという筆者の態度がでてくる。そうすることによって物理学の「有用性(公共性)」が確保されるのではないか。著者はそのように考えているように読める。真理ではなく、自重としての折衷案。
●しかし、この自重としての折衷案(情報理論としての物理学)は、より積極的な(折衷的な場こそが本質的なのだとする)折衷案、たとえば(科学者には評判が悪いであろう)ラトゥールなどと充分に接続可能であるようにも思われる。あるいは、郡司ペギオ−幸夫などとも。それが著者の本意から大きく外れてしまうことだとしても。
●ここから先はこの本の「読み」ではなく、素人によるいい加減で胡散臭い思弁。おそらくこの「情報論的エントロピー」において潜在的に想定されているのは「波動関数の収縮」ではないか。可能性の確率分布である波動関数が、観測によって収縮し、一つの状態となる。この時、観測という行為が物理的な状態に影響を与えることが問題となる。人間が観測する、しないにかかわらず(人間の主観にかかわらず)、宇宙は「ある状態(客観)」としてあるはずだ、という考えが成り立たなくなる(例えばペンローズは、波動関数は客観的に収縮するはずだとする)。ここで、観測者の観測という行為を「エントロピーの増加」へと代替することはできないか。観測によって波動関数が収束するのは、それによって情報量が廃棄される(エントロピーが増加する)からである、とは言えないか。だが、このような言い換えにどういう意味があるのか。
有名なシュレーディンガーの猫という思考実験を変形して、猫の生死を人間が観測するのではなく、シュレーディンガーの猫という「装置」そのものが観測するとすればどうか、ということ。そうだとしても、「観測者」という位置そのものが消えるわけではない(情報とはそれを観測して判断する何者か――システム――があってはじめて「情報」であろう)。しかし、観測者が「人間の主観」である必要はなくなる。たとえば、(エントロピーが時間にかかわるとすれば)「時間」そのものが観測者なのだとは言えないか、などなど、と(でもこれだとカント---時間と空間は感性の形式---の裏返しでしかないか…)。宇宙には人間以前(あるいは生物的な主観性以前)にも既に、「確率分布の状態」とその「観測(収縮)装置」がセットとして存在しているとみればどうか(これを、バーチャル化とアクチュアル化の往還として考えることもできるのではないか)、とか。いや、ドヤ顔で言うほどのことでもないけど。
量子力学は、理系にすすめば学部の三年くらいで勉強する程度の、特に何ということもない、常識的で当たり前の、既に完成されたものだという。われわれの身の回りにあるテクノロジーにも一般的に広く応用されている。しかしそれはあくまで「道具(計算法?)」としての量子力学だろう。著者はボーアによるコペンハーゲン解釈について次のように書く。≪二〇世紀後半の量子物理の繁栄から見れば確かに、この「深く考えずに慣れる」を推奨する学術政策の成果は絶大であった≫。だが、「世界観(世界を記述する書法)」としての量子力学は、未だ常識的で受け入れやすいものとは言い難い。ファインマンは、「量子力学は、理解はできないがいくらでも使いこなすことができる」と言ったという。だけどいったい、道具としては受け入れるけど、世界観としては受け入れない、などということが可能なのだろうか。
いやでもだからこそ、著者は、量子力学は「世界観」として社会が簡単に受け入れられるような甘いものではないと警鐘を鳴らしているのかもしれないのだけど。量子力学的な認識は、そのくらい(社会を崩壊させかねないくらい)やばいものを含んでいるということなのではないか。
(なんだかんだ言って、まだ二章までしか読んでない。