SCAI THE BATHHOUSE横尾忠則を観に行く。
上野駅から上野公園を通って行く。上野公園を歩きながら、「公園」というのはまさに都市的な場所なのだなあと思う。空間的にも、時間的にも、そして感情的にも、ゆるい雑踏。たとえば、渋谷のスクランブル交差点のようなところを、水で何倍にも薄めて、空間的・時間的・感情的な「隙間」を大きく広げるというイメージ。隙間が広げられることによって、雑踏を構成する個々の身体的、精神的、時間的な動きの自由度を高くする。濃縮還元の野菜ジュースみたいに、いったん根から切り離されて凝縮された関係(都市)が、人工的につくられたゆとりのある空間によって再度薄められる。だから公園は、とても抽象度の高い、モダニズム的な空間だと言える。公園という空間のもつ解放感は抽象的な自由度によるもので、おそらくそれは近代以前にはかったものなのではないか。だからそれは近代絵画の空間と似ている。
●そのような、近代的、抽象的な、開かれたランダムな空間と、地域主義的、あるいは秘密結社的な閉じられて濃密な空間とを、どのように接続し、どのように行き来するのか。広くて拡散的な空間=関係と、狭くて凝集的な空間=関係。たとえば、上野公園を通ってSCAI THE BATHHOUSEに行く。上野公園に集まる多くの人は、現代美術のギャラリーがその近くにあることを知らないし、そもそも現代美術に興味もないだろう。拡散的な空間=関係を通って、凝集的な空間=関係に移行し、双方を行き来する。
●あるいはまた別の話。公園で写真を撮る。たとえばその写真には、子供を遊ばせている母親と、その横を通り過ぎようとするカップルと、その間にある大きな樹と樹がつくる影が写っているとする。そのそれぞれは互いに何の関係もなく、公園という人工的なランダム空間上をたまたまその時に通り過ぎた多数の項の一つでしかない。それが、それらをフレーミングするという行為によって、一枚の写真という平面上に関係づけられる。そこには、拡散という状態の表現(凝集)がある。拡散状態の拡散性を維持したまま、その関係を凝集する。
その時、その三者を関係づけているのは、ただフレーム化するという行為のみである。そこで関係づけられている三者は、自分たちが関係づけられたことを知らない。この時、この三者は関係づけられたと言えるのだろうか。それはたんに、この三者を同時フレーミングしようとしたぼくの主観のなかでのみ成立している関係なのだろうか。しかし、パソコンの画面に表示される映像は、ぼくの主観の外にある。たとえば、ぼくはただ、樹と樹がつくる影にのみ注目して写真を撮ったとする。しかし後から見て、子供を遊ばせる母親とカップルも写り込んでしまっていることを知る。だとすればその時、三者を関係づけたのはぼくの主観ではなく、カメラと画像という装置であろう。
この時、カメラと画像という装置は、公園という人工的な空間と似ている。
●あるいは、ぼくは意識下で母親のこともカップルのことも見えていて、その意識下の認識(?)が、樹とその影だけではない広めのフレームを選択させたのかもしれない。その時、母親やカップルがいたことは意識にまでは上らず、だから記憶にも定着されない。しかし、帰ってからその画像を見ることで、そこに母親とカップルがいたことを思い出すかもしれない。そこでは、そもそも意識していない、記憶もしていないことを思い出す。「思い出す」その時まではまったく意識していなかったのに、「思い出した瞬間」から過去にさかのぼって、写真を撮った時から当然意識していたかのように思う(記憶が構成し直される)かもしれない。そうだとしたら、写真を撮ってから思い出すまでの「意識していなかった方の時間」の記憶は、ぼくにとっての「構成された現実の時間」の外に捨てられる。その記憶が完全には消えないとすれば、ぼくにとっての現実の時間軸上にはない、「現実にはなかった(はずの)記憶」が生まれる。
●だがその時、誰かがその一枚の画像だけをすり替えていたとする。そこでぼくは、そもそも意識下でさえ「見ていない」ものを思い出すかもしれない。実際、見ても聞いてもいないことを「思い出す」のは、それほど困難なことではない。
●だとすれば、ぼくの記憶、ぼくの主観は、ぼくの内側にあるのでも外側にあるのでもないことになる。ぼくの主観は、カメラと画像という装置でできている。あるいは、公園という空間によってできている。そしてそれは何度も書き直され、書きおなされるたびに、「偽」の烙印をおされて「現実」の外に捨てられる「別の記憶」が澱のように溜まってゆくだろう。
●もう一軒、美術館を回ろうと思っていたのだけど、時間的に無理なので(今から行っても閉館ぎりぎりになってしまうので)あきらめて、上野から東京駅までぶらぶら歩くことにした。上野から、御徒町秋葉原、神田と、基本的には山手線の線路に沿って、あとは適当に逸脱しながら歩いた(途中で中央線の方へと逸れて御茶ノ水まで行ったりした)。歩いていて、自分が思いのほか秋葉原になじむというか、秋葉原周辺の感じがやけに心地よいことに気付いた(父親が長年使っていたワープロがついに壊れて使えなくなり、でもパソコンを覚えるのはもう無理、みたいな感じなので、古いワープロを売っていたりしないか見ていたのだけど、売っていそうもなかった)。
●歩いていてたまたま、「柳森神社」(柳林神社ではなく)というのを見つけてちょっと興奮した。でも、『シュタインズゲート』に出てくる柳林神社とはあまり似ていなかった(境内に入って行くのに階段を下りてゆく感じは似ていたかも)。