●当初、7月いっぱいは全く何の予定もはいってなくて夏休み状態だったのだが、いくつかの予定がぽつぽつとはいってきて、来週は軽く忙しい感じにまでなった。以前に書いた長めの作家論(65枚くらい)のゲラの直しと、映画のレビュー(10枚くらい)と書評(6枚くらい)の締め切りが来週の末と再来週の頭にまとまってあり、それにもしかすると対談を起こした原稿のチェックも加わるかもしれず、それとは別に、人と会う約束が二つか三つある。一週間でやることがたったそれだけなのかと言われるかもしれないけど、ぼくにとってはかなり忙しい感じだ。
今日は、レビューを書く映画をビデオで観て、ジュンク堂のフェアの第二期(ガチガチ篇)のために選んだ本のリストを完成させてメールで送って(担当者から来た返事に「濃いですね(笑)」と書かれていた)、喫茶店へ移動して、書評を書く本を三分の一くらい読んで、用事とはまったく関係ない別の本を、さらに少し読んで、それでもう頭はかなり疲労して、一日の仕事は終わりという感じで、最近みつけた安い割にはおいしいワインを買って帰って、夕方から酔っぱらって、すっかり気を抜いていたら、八時過ぎくらいに磯崎憲一郎さんから電話があって、今、新宿のジュンク堂にいるんだけど、「古谷利裕フェア」ってどこでやってるんだ、と言われる。「いや、14日からなんで、まだやってないはずですよ」「14日から ! 、どおりでどこを探してもみつからないわけだ、ところで、偽日記に書かれてないけど「群像」の「古墳公園」は読んだの」「読みましたよ、面白かったですよ、カメレオンとか」「イグアナだよ 」という噛み合わない話をした。
●「古墳公園」(「群像」8月号)を、エッセイと言うべきなのか小説と言うべきなのか分らないけど、どちらにしろ、磯崎さんの作品の特徴が凝縮された形であらわれている、とても面白いテキストだと思った。
まずはじめに、子供の頃に、冬の夕方の森のなかを歩いているうちに、枯れ草に覆われた小山に行き当たったという、印象的な風景の記憶があり、その風景を共に見ていたAという友人がいたことが示される。次いで、まるでその風景の強い印象が、友人Aの存在を消してしまったかのような、友人との関係の消失の記憶が語られる。おそらく、ここで語られる記憶は、事後的に捏造された記憶で、実際には、何かしらAと疎遠になる具体的な出来事があったのだろうと思われるのだが、しかし、ある冬の夕方の印象的な風景の感触が、その具体的な出来事に変わって、筆者にとっての、Aとの関係の感触のリアリティをあらわすものとして残ったのだろう。ここでは風景の具体性(聞こえている音や、森を歩いて行く感じ、光りや寒さの感じも含めたもの)こそが、筆者とAとの関係を(比喩的にではなく、質的に)代替的に表現しているのだと思われる。
そしてその後、社会人となった筆者がナイジェリアで見た特異な風景(グロテスクなほどに大きな熱帯樹、工場の中庭を走るエメラルドのイグアナ)や、そこで公然と賄賂を要求して来る人物などによって与えられた強烈な印象が、それとはまったく似ていない、子供の頃の冬の森の風景の記憶を(おそらくその印象の強度の度合いの類似によって)召還し、その風景の記憶が、それを共に見ていたAという友人の存在、そして、自身とAとの関係の感触を、筆者の胸のうちに呼び起こす。
そして《私の人生というものを、あれっきりずっと会っていないAに対する語りかけと位置づけてみるのも面白いかもしれない。今日経験したような、意味付けなどいっさい拒否する魅力的な出来事や風景のすべてを、こと細かくAに報告してやるのだ。いったん私がそう考えることによって、Aのその後のじっさいの人生もずっと後になってから思い出されているような、獏とした時間に変わってしまったような気がした。》という認識が示される。
ここに引用したこれだけの文章にこめられた無限のニュアンス。森のなかの枯れ草の丘を見たという記憶の確かな感触。共に森のなかを歩き、共にあの枯れ草の丘を見た、という、Aに対して感じている親しさ。そこに確実に存在し、共有した過去の時間の確かさ。もしかしたら抑圧されているのかもしれない、その後のAとの関係の消失という出来事や、それへの後ろめたさ、あるいは悲しさ。自身と関係ないところで営まれている、その後のAの人生への(無根拠な)信頼。その時間の流れの具体性への感覚。実際的な関係が途切れた後でも持続する想像的な関係のあり様。それを支える過去=記憶の強さ。そして、実際的ではない、想像的な関係が、実在するAの存在のあり様に対して、ある作用を実際に及ぼすこともあるのではないかという思い。
実際に、森のなかで共に枯れ草の丘を見たように、ナイジェリアの風景を頭のなかでAへと送り届けることで、Aと共にそれを見ること。それによって、Aの人生のあり様に具体的な影響を及ぼしているのではないかという実感。これが、どこまでが頭のなかでの出来事で、どこからがその外の現実的な出来事なのか分らないが、しかし、頭のなかのなにごとかが、外へと流れ出て、そこに影響を与えているのではないかという感触。
今、見ているナイジェリアの風景は、それとまったく似ていない、あの森の中の枯れ草の丘によって支えられているのではないか。その枯れ草の丘の風景が、それを共に見たAとの関係(の記憶)に支えられているとしたら、このナイジェリアの風景もまた、Aへと送られ、Aと共に見られるべきではないのか。というか、《私》は、そう思う前に既にそうしているのではなかったか。時間と空間を隔てた二つの風景が、それを共に見るAと筆者との関係の感触によって結びつく時、その二つの風景の間に挟まれることで、筆者と無関係に営まれたAの人生の時間は、《後になってから思い出されているような、獏とした時間に変わってし》まうのではないか。
そして筆者は最後に、子供の頃に見た枯れ草の丘が、今でも「古墳公園」として実在していることに行き当たる。つまりそれは、筆者とAとの間の想像的な関係が、今でも、頭の外に、現実として実在しているということを示すものなのではないか。