●地元といっても不思議に縁のない区域があって、それは例えば、小中学校の時にたまたまその辺に友達の家がなくて、その辺りを訪れる機会がなかったりすると、地元で土地勘があるとわさわ地図などを見る機会も少ないからこそ、頭のなかの空間的ひろがりでその部分はずっと欠落したままとなる。そうなると、散歩をしていても無意識にそこが避けられていたりもする。育った土地でなければそのようなあらかじめなされている色分けも少なく、どこもほぼ等しく不慣れであるから、無意識に避けられる区域があるとするとそれは認知上の特性や傾向によるかもしれないが、地元にはそこで育ったという来歴も、土地のひろがのなかに(欠落という形でも)埋め込まれている。
地名としては親しみがあっても、その地名がだいたいどこらへんにあるのかイメージしようとすると、頭のなかにひろがる地形のどこにも収まるところがないということがある。小中学校の頃に、その地名をもつ場所から通ってくる同級生を知っていたとしても、その家に遊びに行くというまで親しくはなかったとすると、その土地は地名だけが親しいもので、位置としては、だいたいその人が帰ってゆく方角の延長線上のどこかだろうというような、茫洋としたイメージしかなかったりする。だいたいここら辺りだろうという当たりをつけることは出来ても、その「ここら辺り」は、地図のなかでそこだけ白く残されているという感じではなく、空間の座標自体が歪んでいて、その空白が他の空白ではない地帯とどう繋がるのかという関係がうまくイメージできない。
そういう地名をいくつかイメージして、今日はその地名の方へ向かって散歩してみようと思った。あの地名は確かこっちの方角だという方へとずんずん歩いてゆくと、見慣れない、ぼくが持っている「地元」という空気とはやや異なる風景がひろがる地帯に出くわすことが出来た。町内掲示板のようなものがあったので確認すると、確かにイメージしていた地名がそこに書き込まれている。実家から歩いてもおそらく二十数分くらいでたどり着けるであろう場所に、ほとんど未知であるような風景があることが不思議なのだが、その辺りをしばらくぶらぶらしていると、今、自分が歩いているのがどこか分からなくなる。今、歩いているところが、今、住んでいる地元につながっている土地なのか、八王子の前に住んでいた辺りと繋がっている土地なのか、あるいは、全然別の、初めて訪れるような場所を歩いているのかが、分からなくなってくる。いや、そうではないか。勿論、今、地元を歩いているというとは分かっているのだけど、今まで散歩してきた、あるいはただ通りすぎてきた、様々な風景の記憶の空間的な繋がり方の方が混乱してくる。つまり、確かあの角を曲がるとこんな風景だったはずだと思いつき、次の瞬間、いや、あれは八王子のあの場所の風景だったはずではないかと思い直す、という風に。あるいは、唐突にある空間的なイメージとそこを歩いている自分という記憶がよみがえるのだが、それが一体「どこ」であったのか(別の「どこ」に繋がっていた風景なのか)が、なかなか思い出せない、というような。頭のなかの空間のなだらかに繋がる繋がりの配置が混乱してしまうような感じ。これは、道に迷うという感じに近いのだけど、それともちょっと違う感じだ。
そういう風に歩いているうち、ここは前にも歩いたことがあるはずだと感じる坂道に行き当たった。歩いたことがあるだけでなく、頻繁に夢に出てくるような気さえする。しかし、この一帯に足を踏み入れたのは今日が初めてであるはずだった。これも記憶の混乱だろうかと思いながら坂を登っているうちに、そこが、小学生の頃によく父の車に乗って通った道であることを思い出した。坂を登り切った山の頂上に公園があり、桜の時期や、そうでなくても父の休みの日などに、家族でよくその公園に車で行った(中学生になるとさすがにそういう機会はほとんどなくなったと思う)。その一帯に足を踏み入れたことはないけど、車で、一本の道路としてそこを突っ切ったことは頻繁にあったのだ。ぼくにとってその一帯は、面としては欠落していて、線としてのみ存在していたことになる。
面白いのは、ぼくはそこを車に乗って通過したことしかないはずなのに、記憶としては、自分の足で歩いている感触として構成されているらしく、歩いて登っているこの感じ、として思い出していたことだ。家族とともに車で通ったことしかないはずの坂道を、一人でそこを歩いている記憶として思い出す。それは今、ぼくがそこを一人で歩いているということ、歩きながら思い出しているという状況に影響されているのだろうけど、でも、夢ではよく、この坂を自転車で登ったり下ったりもしているような気もする。