●近年に書かれたまったくタイプの異なる二つのすぐれた「東京小説」の一部を、タイトルも作家名もなしで並べてみる。
(1)《鳴海くんはわたしの顔をしばらくじっと見ていたけれど、高校のときに呼んでいた呼び方で呼んでみたりもしなかったし、ずっとしゃべらないで信号が青に変わった横断歩道を渡った。そのまま道路沿いの歩道を道なりに進んだ。両脇には一戸建てや小規模のマンションや倉庫なんかが、思いつきで増えたようにばらばらにあって、その不揃いさによってできた空間が、妙にすかすかした印象の街にしていた。鳴海くんはなにもしゃべらなくて、わたしは周りの建物や擦れ違う自転車のおばちゃんに目をやっていた。
三分ほど歩いて信号で止まったところで、鳴海くんが道路の向こうの倉庫の後ろに建っている高層住宅を指さして、あれ、と言った。築二十年は経っていそうな灰色の、十五階くらいの高さで一つの階に二十軒ほど並んでいる大型の建物が、平行に三棟並んでいた。横断歩道を渡ってから、わたしは言った。
「さっき、電車のなかでめっちゃかわいい子見てん」》
(2)《まちなかの歩道の端に自転車がとめてある。建物のある側ではなく車道側に。そこまで何者かが乗ってきて、このように無断で置いていったのだ。
それがしばしば交通上や美観の点で問題視され、取り締まりの対象ともなっているが、そんな放置自転車の一台一台にも必ずや持ち主がいる。また路肩の違法駐車車両から少なくともひとりの人間が降りてきたことになる。彼らは依然としてそれらの所有者としての責任を負う一方、その場を離れた瞬間から、車両によらない方法で移動する身軽な存在になったといえる。乗りものを降りればしたがうべき交通ルールは変わる。交通弱者の乗りものとしての車いすやベビーカーを別にすれば、まずなによりも歩行者の通行が優先される。》
《青信号の交差点を無事渡りきる。列からひとり抜け出すかたちで、歩道のガードレール側か建物の壁面に貼りつくようにして立つ。表通りの歩道を行く人の流れ。依然として人通りは絶えない。あれらカフェが流行るはずだ。外には落ちついて座れる場所が少なすぎる。
建物内にも歩行空間は途切れることなくつづいている。大型商業施設なら街路の延長のような内部を回遊することもできる。形態や規模、テナント数や売り場面積、空間利用という面からも高度な商業集積がそこにみられる。》
●前者は、おそらく具体的な地名をもつ実在する土地を描写しており(新宿くから埼京線で行く「鳴海くん」の住む地域は、東京というより埼玉を思わせるが)、その土地を歩く様が、高校時代の知り合いである鳴海くんと久しぶりにあった「わたし」の視点から描写される。そしてその土地の描写は、鳴海くんの眼差し、鳴海くんの沈黙、鳴海くんとの過去の記憶などを感じている「わたし」の感情を「表現するもの」としてあるのでは決してないが、しかしその感情と同時に、それと共にある。つまりその土地は、鳴海くんに「会うために来たわたし」の前に広がっているものとしてある。ここで描かれる場所は、具体的な人物における、具体的な場面、具体的な時間、としてあり、それはその人物がその時に感じていた「感情」と切り離せない。その感情と共に、あるいは、鳴海くんとの関係によって動く視線によって構成されている。
対して、後者は、その情景とともにあるような具体的な人物が登場しない。まず、放置された自転車や駐車された車から、その「持ち主」のまぼろしが幻視される。そしてその人物は「歩き」だすだろう。しかしその人物は具体像をもたない抽象的な影のような人物で、それは「違法駐車」とか「交通ルールの変更」など、取り締まりの対象としてのみ捉えられる。この人物たちそれぞれがどのような事情をもち、どのような感情をもつのかは知られない。
次いで、交差点を渡る無数の人物たちから、「ひとり抜け出す」人物に焦点があてられる。だがこの人物は、大勢のなかから抜け出した「ひとり」であるはずなのに、《歩道のガードレール側か建物の壁面に貼りつくようにして立つ》と書かれるように、どちら側にいるのかさえ限定されない。ガードレール側にいるかもしれないし、建物側にいるかもしれない誰かは、ある誰かであるかもしれないし、別の誰かでもあるかもしれない、たんに数字として示された「一」人でしかない。ただその「ひとり」は、大勢の人の流れのなかで、立ち止まっていることへの困難を感じているようだということは察せられる。しかしその、「立ち止まることの困難」という感情は、ただちに、カフェが流行る理由へと転化され、さらには、大型商業施設への注目へと移り変わってゆく。ここでは「感情」さえも立ち止まることが困難である。そしてここでは、「あれらのカフェ」も「大型商業施設」も、具体的などれか、どこか(地名、店名、施設名)を想定して書かれた言葉ではなく、雑然とした一般的イメージとして書かれている。とはいえ、東京といわれる地域のなかにある「大型商業施設」といってまず連想されるのは、具体的にはごく限定されたいくつかでしかなく、それを読む者は、その「大型商業施設」に対するきわめてありふれた紋切り型のイメージを思い浮かべることになろう。
●とはいえ、まったく書き方や捉え方のことなる、記憶や感覚に対する働きかけかたのことなる前者と後者の二つの記述が、東京周辺に住む者に喚起するイメージは、実はそれほど隔たってはいないように感じられる。前者における具体的な人物のもつ、具体的な視点、感情は、しかしあくまでフィクションとして構成されたもので、そのような人物・場面をフィクションとして生み出せるということからして、そして、そのようなフィクションの人物の視点を読者がすんなりと受け入れることが可能であることからして、その視点、感情、場面、風景もまた、具体的な時間、空間に縛られたものではなく、そこから切り離して再構成され得るものだということを示しているだろう。具体的な人物も彼女のもつ感情も、彼女によって構成される風景も、こだまのように増幅して、匿名化し、そこここに響き渡るだろう。そしてまた、後者の、一般化された、具体的な像を結ばない、あくまで外側からの紋切り型の言葉だけで構成された人物・風景の記述も、実際に読んでみると、それによって、意外な程に我々の具体的な記憶が喚起されることに驚くのではないだろうか。放置自転車、路肩に駐車された車、人の流れ、無数の人物のなかの一人であること、大型商業施設での回遊、そして、たんに「立ち止まる」というなんでもない行為の困難さと、そのためのカフェという存在。これらはきわめて具体的で日常的で生々しい我々の生活の一部であり、まったく具体性を書いた記述によって生まれる、具体的な感触というものがあるように思われる。
これら二つの、まったくことなる記述の間からみえてくる共通した感覚こそが、その背後にある「東京」という現実の存在を浮かび上がらせる。作品が現実を映すのではなく、現実が、すぐれた作品の後に生まれる。あるいは少なくとも、作品の後にようやく顕在化する。
●(1)は、『また会う日まで』(柴崎友香)、(2)は、『このあいだ東京でね』(青木淳悟)。