●銀座の藍画廊(前にギャラリー21+葉があった場所に移転した)で、小林聡子展。
絵具が入っていた箱、ワイングラスがはいっていた箱、ポットが入っていた箱、お菓子が入っていた箱など、商品が梱包されていた、厚紙で出来た箱に、油絵具で彩色し、乾燥したらサンドペーパーをかけ、さらにその上から彩色する、ということを何度か繰り返すことで、箱には微妙な色彩と独自のテクスチャーが生まれ、形も微妙に歪んでくる。そのようにして出来た、大小、厚み、縦横比、様々な箱が、画廊の壁に点を打つように配置される。色は、白、くすんだ空色、渋いグリーン、淡い赤紫とも言えるピンクと、とりあえず名指すことが可能な、全体として抑制されたトーンの中間色であり、それらの箱が、箱そのものよりもむしろ、箱と箱との間の大きく空いた隙間が強調されるかのように並べられる。同時に、水彩紙に、箱に彩色された色に近い色の点が描かれたドローイングも同時に展示されている。紙の白、紙の面積に対する点の数や分布、点の色彩やトーンなどが、画廊空間に対する、箱の配置のイメージの原型となっているかのようにみえる。
女性に「箱好き」が多いのは知っている。まず最初に、日常的な次元での、そのような作家と物との関係がある。そして、日常的な次元での物への眼差しに、彩色し、やすりがけをするという行為(技術)が加えられる。ここで、作家と物との間に、もう一つ別の関係性が生まれる。それは、商品のパッケージとしての箱を変質させるという物へのアプローチであるのと同時に、それに加工している時間は、作家の生きる時間の質をも変質させるもので、自身の生きる時間そのものへのアプローチでもあろう。作家の生活のなかで、日常的な小物としての箱と、美術家として親しい物である油絵具が、加工する時間のなかで新たな関係をもつ。そして、そのような時間の結果として生まれる、ある新たな関係を表現する「物」たちが、画廊の空間という、作家の実際の生活とはやや離れた(美術家であるのだから、まったく切り離された、というわけではない)文脈をもつ場で、あらためて配置され直す。
まず、日常的な時空における作家と箱との関係(出会い)があり、それが、油絵具とやすりによって加工されるという新たな時間-関係を経て、新たな物質へと変質する。そして、それ自体として「ひとつの新たな関係」を表現するものである加工された一つ一つの箱たちが、画廊の空間のなかで改めて配置されることで、画廊空間との関係、一つの見渡せる空間内での配置による箱たち相互の関係の作用によって、またもう一つ、新たな次元での表現性をもつ。そして、この三層の次元のことなる「関係」が同時にあることによって、この作品が成立している。
例えばぼくが、この作品とそっくり同じものを模倣出来たとしても、そこには、一番最初にあるべき、「箱好き」という次元での物との関係が抜けているから、リアリティのないものにしかならないだろう。作品のリアリティとは、そういう所にこそ宿るのであって、結果から効果を逆算するような形では、リアリティはつくりだせない。(小林さんが本当に「箱好き」なのかどうかは知らないけど、最初に箱に注目した時の注意の動きというか、心の動きのようなものが、最後に結果として展示された「作品」の次元でも消えることなく存続されているという感触がある、ということなのだ。)
●代官山のパーソナルギャラリー地中海で、堀由樹子展。
ここで展示されている作品の多くには、画家の迷いのような感触が感じられた。自分が選択した色彩、自分が置いたタッチに対する確信のなさが、作品全体をぼやけた印象にしてしまっているのではないか。確信のなさを、手数の多さとそこに込められた熱量によって補おうとして、結果としてその手数が、最初にあったはずの「何か」をぼやけさせてしまっている、というのか。
10やった行為に対して、すかさず、それを否定する8くらいの行為を重ねないと安心できない、という感じ。それは、三歩進んで二歩下がる、というような、試行錯誤をしながら方向を探るという行為とは、微妙だが違っているように思われる。最初にあった「何か」を、どんどん強く、緊密なものへと育ててゆくために手数を多くする、あるいは、最初にあった「何か」を出発点として、そこからどこまで遠くへ行けるのか探ってゆくための試行錯誤、ということではなくて、最初に強く「何か」を言って、しかしそれはちょっと言い過ぎだったと表現を改め、しかしそれでは駄目だと再び強く言い、しかしまた言い過ぎだったかもと修正する、みたいな行為がつづけられている感じで、でもそれだと、同じ場所で何度も足踏みしているのとかわらないことになってしまうのではないだろうか。そのような行為を繰り返しているうちに、最初に自分が言いたかった「何か」の印象が、自分自身にとってもぼやけていってしまうのではないだろうか。そのような行為の繰り返しによって得られる中間のトーンは、「深い」というよりもむしろ「鈍い」という印象になってしまうように思える。
キャンバスに油絵具で描くということは、いくらでも絵具を、そして時間を、重ねられ、いくらでも深く練り上げてゆくことが出来るということであり、それは他には代え難い悦びであると同時に、一歩間違えは底なし沼にのめり込むような苦しみでもあり(しかもその苦しみが時に悦びと見分け難いものであることが厄介なのだが)、そこを、「冴えた感覚」を保ちつつ泳ぎ切るためには、相当の体力と伎倆とが必要で、上に書いたことはまったく他人事ではない、むしろぼく自身がとても落ち込みやすい罠でもあるのだが。