08/03/26

●「主題歌」(柴崎友香)は、女子好きの女性たちが女の子限定カフェをする話で、ぼくのようなおっさんの入り込む余地がないようにも感じられるのだけど、読んでみると意外にも男性の存在をかなり濃く感じる。
この小説の主な男性の登場人物は、主人公の実加と同棲している洋治、実加の大学の後輩の森本、実加の会社の上司の瀬川課長といったところだろうか。なかでも森本はとても魅力的なキャラクターとして描かれていて、(前に読んだ時も同じようなことを書いたと思うのだけど)ぼくにはこの小説の最初の方はどうしてもぴんとこない感じなのだけど、森本とりえが出て来るあたりから急に面白く感じられるようになる。(ぼくにとってはこの小説は「森本の出てる小説」という感じだ。)森本ほどに魅力的には描かれていないし、出番もちょっとしかないのだけど、瀬川課長もまた、渋い脇役というか、出番が少ないわりには大きな存在感を示しているように思われる。この二人の人物はまったく似ていないのだけど、二人ともが、この小説の中心にいる女性たちとはちょっと違った感じの存在の仕方をしていて、小説が、女性たちだけの世界へと流れていってしまうことを食い止めて、女性たちとは別の世界の存在の徴候を小説のなかに招き入れ、奥行きをつくっているように思われる。(いきなり小田ちゃんの母親が出て来たりすることろもそうなのだが、この小説は題材的に一見間口が狭いようにみえて、なかにはいると思わぬひろがりがある。)
それに比べ、実加と同棲している洋治という人物は、出番の多いわりにはいまひとつ明確な印象を残さないというか、顔が見えてこないというか、無色透明な存在のように感じられる。プレイボーイを見ながら会社から帰ってきた実加との、けっこう長いやり取りの場面もあるのだけど、その場面は下手をすると、実加の「女子好き」を説明する場面であるかのようにも感じられてしまう。では、洋治という人物の存在が薄いのかと言えば、そうでもない。
この小説は三人称で書かれているのだが、視点はほとんど実加に貼り付いていて、その近くにいるのだが、何度か実加から離れる場面もある。そのなかでとりわけ印象的なのが、実加がプレイボーイを見ながら会社から帰って来るところを、洋治が部屋のベランダから見ている場面だ。ここで視点は実加から離れていて、実加を見ている洋治の視線に、実加は気づいていない。この場面が、何故そんなに印象的なのか、ずっとよくわからなかった。
同じ『主題歌』という本に収録されている「六十の半分」では、ふと立ち上がった敬一という男性が、ベンチに座っている中学の同級生である香奈という女性の「つむじ」を見て、中学時代の香奈が、《背が低かったこと》を思い出す。この場面で、敬一が香奈のつむじを見ている視線を、香奈はおそらく気づいていない。しかし、そうだとしても、この視線が、その後、香奈に《中学生の時の自分の感じが一瞬戻ってきた》ような感じを呼び起こさせることになる。
あるいは、「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」で、登場人物の絵莉と周子は、今、ここにはいない男性のことを意識していて、その男性へ向けて、今、ここで自分が見ているもの、感じていることを送りとどけたいと思っている。男性は不在であるが、不在であることによって、世界の表情を活気づける。
この二つの小説を読んだ後に「主題歌」を読むと、洋治による視線の効果が、多少はみえてくるように思われる。おそらく、この場面での洋治の実加への視線は、実加において存在している(実加の内部に存在している)ものの表現なのではないか。分かりづらい言い方かもしれないが、実加は、洋治の視線を具体的には「知らない」にも関わらず、そのような視線を送ってくる存在を知っていて、そのような視線を確信していることが、実加にとっての洋治との関係を支えているもののように思われる。「六十の半分」の香奈が敬一の具体的な「つむじを見ている」視線を知らないにしても、その場面で、香奈と敬一と良太との間に、そのような視線のやり取りが共有されていることは、無意識のなかで確信されている。そのような無意識の確信を成立させているのが、中学時代を共有した時間であり、その記憶であろう。
「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」で、絵莉と周子は、今、ここにいない男性の存在を強く感じている。しかしそれは、恋愛の初期の特別な高揚のなかにいるからで、実加と洋治との関係は、もっと長く安定したもので、既に同棲しているから、例えば絵莉の春生への感情のように強く意識されることはない。しかしそれは、もっと安定したものとして、いちいち意識されなくても、表面には出ない奥のところで作動していて、そのような、いちいち意識されないけど、ゆるやかに、そして安定して作動している感情を表現するのが、あの、ベランダからの視線だったのではないだろうか。実加が洋治からの視線を、(具体的には)知らないけど(無意識のうちに)確信していることと、周子が不在のがっちゃんに向けて、ここで起きていること全てを伝えたいと思っていることとは、表現のベクトルは逆向きで、熱さもことなるけど、同じような感情の逆側からの表現なのではないだろうか。
実加にとって、そのような感情(自分を見ている視線への確信)は、いちいち意識されないくらいに安定して作動するようになっているから、それを美加の意識としては(つまり一人称としては)描けない。だから、三人称として、実加の外側からの視線として、実加に内側の感情の作動が描かれたのではないだろうか。それがいちいち意識されない程になっているのは、実加と洋治との間に共有された時間の厚みによる関係の安定があるからであり、それはおそらく「六十の半分」の中学時代の経験のような質をもっている。この視線は、時間の厚みの表現でもあるのではないか。
だから、洋治があまり印象的なキャラクターとして描かれていないのは、その必要がないからで、実加にとって彼は、安定した(信頼のおける)関係を無意識のうちに支える「視線」として(あるいは携帯プレイヤーに残された音楽のような存在として)存在していれば、それで充分だからであろう。