08/03/25

●新宿のコニカミノルタプラザ、ギャラリーBで。大谷佳展「concrete ph」(31日まで)。モノクロプリントの黒い調子はそれ自体でうつくしく、それは版画のインクの黒を思わせる物質的な手触りをもつ。この美の感触が、写真という装置が写しとってしまう世界の圧倒的なイメージと、我々の知覚との切断のショックをやわらげ、安心させ、そのイメージとの関係をもつことが可能であるかのような感情を保持させる。それはだから、つるっとしたガラス面に、無機質な色彩で定着されていた福居伸宏による作品のような、知覚とイメージとのつよい切断の衝撃よりは、ややマイルドな感じを生む。だから良いとか、だから悪いとかではなく、大谷佳は、人と世界との圧倒的な切断のあり様(強度)を提示する福居伸宏よりは、写真が定着させてしまうイメージと、自身の知覚、あるいは自身の生とを、なんとか関係づけようと格闘しているように思われる。
展示でも、一方で、決して肉眼では見ることの出来ない、多様な世界の細部が同居し、溢れ、それを見る者の眼を否応無しに発熱させるようなイメージをもつ都市の風景と、もう一方で、立派な枝をひろげ、豊かに葉をつけた木の下に水溜まりのある風景や、暗い室内と白く明るい窓のコントラストがうつくしい光景など、眼がすんなりと「美」として受け入れることの出来るようなイメージとが、同時に示されている。このブレというか、この振幅の幅は、写真家がカメラを持って街を歩く時に、その都度出くわしたものに対して、自然にとる態度の変化の幅を示していると思われる。当然のことだが、カメラは自分自身で街を歩くことはない。街を歩くのは人間(写真家)であり、街を見るのも人間である。街を歩き、見る、人間と、それを写し取るカメラという、本来ことなる原理の間の関係のあり様は、事前に決定されているわけではなく、それはその都度目の前にあらわれる都市の風景によって、それに向けてフレームを定めシャッターを切るという行為の度に、新たに計り直されている、という感じがある。ただ、だとしたら、もう少し大きな振幅があってもよいのではないか、つまり、カメラの原理と知覚の原理との間の緊張や摩擦や葛藤の起こる幅が、もう少し大きなブレとしてあってもよいのではないか、という気もする。(ただそれは、写真を、写真家の「作品」として提示するのならば、という前提があってのことだ。ぼくには、写真というものがどの程度「作品」であるのか、よく分からないところがある。いや別に、作品としての写真を否定しているのではなく、ただ、良く分からない、距離を計りかねる、ということで、ぼくにとっての写真の面白さは、その分からなさにこそあるとも言える。)
●展示を観た後、新宿の街を歩き、今観た写真のように風景を見ようと努力してみるのだが、やはりどうしても、写真のように見ることは出来ないのだった。