小山登美夫ギャラリーで福居伸宏・展「アステリズム」。清澄白河駅を出て、ギャラリーまでまっすぐつづく清澄庭園の脇の道に、見える限りずっと先までまったく日陰がない。これからそこを歩こうとする者を拒むように、道が日光を反射して真っ白く光っていた。セミの声が上から降ってくる。
福居さんの作品を観るのは久しぶりだけど、福居さんの作品にはそれを「見ている時」にしか得られない独自の質がある。それは「独自の質がある」という言葉では憶えているけど、具体的な質感そのものは、ずっと見ていないとだんだんと薄くなり遠ざかってしまう。で、それを再び見ることができると、「あっ、これだ」と思い出す。同時に、まるでそれをはじめて観たかのようなショックも、再び、三度、その都度、受ける。
観ることの欲望が過剰に駆動されるというか、眼の欲動が過剰に供給されて、眼−脳が発熱−発情する。私の身体が消えて眼になってしまうというか、見ているイメージ−世界こそが私となってしまうというか(しかし、そのイメージ−世界とは、自分自身を照らし出す光も含めて完全に人工的な世界であり、同時にそのなかから人間の姿を閉め出すことで成立しているので、その「人のいない場」が「私」となるというのはどういうことなのか。眼−私はそれをどういう欲望において見ているのか)。
人工的な光に照らし出された植物の気持ち悪さ。日光の下で光合成を行うのでも、夜の闇でひっそりと呼吸するのでもない、人工光に照らされた植物の像の不自然で人工的な感触。だがそれは同時に、放って置けば切りがなく増殖してゆく野生の力も感じさせる。そしてその力と増殖への予感は、都市そのものの増殖(破壊と再生、スクラップアンドビルド)とも響き、そこに居るはずの、それを管理する人間の(このイメージのなかでの)不在を、より一層強調するかのようだ。植物の侵入によってイメージはより一層「人間」から離れる。
いつまでも果てしなく見てしまう。気がつくと、眼が画面と二、三センチのところにまで近づいていたりする。しかし、ここでイメージは、これみよがしに「見ろ」と主張しているのでもないし、逆に、視線を誘うようにわざとらしく身を隠しているのでもない。まるでイメージが自分自身で発光しているかのように、自分自身に相応しい強さで静かに冷たく自らの姿を露わにしている。
プリントの表面にアクリル板でコーティングしてある。きっぱりと断ち切られたアクリル板の質は作品にシャープでクールな印象を与えているが、それだけではない。アクリル板は、表面に人や会場を写し込んでしまうので、細部を見るためには、近づいたり、角度を調整したりする必要がある。アクリル板の薄い層は、光の屈折によって夜の薄明かりの表情を一層魅力的にすると同時に、見る者に視線や位置をめまぐるしく調整することを誘い(強いて)、離れた位置から漠然と眺めるだけでない(適度に距離を取った正面から見ようとすると、作品は鏡となってしまう)、作品と見る者の距離、像と眼差しとの距離を流動的なものとする。それがより凝視を誘うのと同時に、フレームやフレーム内の構図という意識を遠のかせる要因にもなる。
二時間以上ギャラリーにいて、ずっと「見て」いた。